伊達政宗が、会津を速やかに制することが出来たのは、
会津代々の家老、平田、松本、佐世、富田といった、
世に蘆名四天王と呼ばれる人々を始めとして、
多くの重臣たちが謀反したためであった。
中でも安積郡の押さえとして猪苗代という城があり、
ここに猪苗代弾正(盛国)といって、
蘆名数代の臣下があったが、欲に心を奪われ代々の主人に逆意して、
政宗を引き込み、彼を猪苗代城に入れた事が、蘆名滅亡に直接つながったという。
かくして政宗は会津を存分とし、知行割をして功臣を賞した。
この時、猪苗代盛国は、伊達安房守成実を通して申し上げた。
「かねがね会津別心の時、三ヶ条の望みとして申し上げていました通り、
北方の半分を下されますように。」
政宗は尋ねた。
「弾正は、北方にどれほどの所領を持っているのか?
そなたに半分与えるとは聞いていないが…。」
「私は北方には、領分少しもありません。
恥じ入ることですが、譜代の主人に逆意仕ったのも、
このためであります。」
そして盛国の家臣である薄源兵衛と申す者が発言した。
「それがしが、その書付を書きました。”半”の字が無ければ切腹いたします!」
そこで政宗がその書付を取り寄せると、
そこには『北方分』とだけ書かれており、『半』の文字は無かった。
盛国は驚愕し、
「主人を裏切った、天罰でしょう。」
そう言って猪苗代へと帰った。
しかし彼が伊達勢を引き入れなければ、
会津はこのように速やかに奪うことできなかったと、
政宗は北方において、五百貫の加増を盛国に与えたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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