徳川家康が、関東に入国することが決まると、内々に家臣の知行割の作業が行われた。
ある近習衆が、家中において武勇名高く、後に徳川十六神将にも数えられる、
内藤四郎左衛門(正成)に、この事を語った。
内藤、それを聞いて尋ねるに、
「最初に誰の知行が決まったのか?」
「はい、最初は貴殿に五千石と決まったようです。」
これを聞いて内藤、
「ふむ、過分なることよ。」
と、まんざらでもない様子。
「他には誰の知行が決まったのかな?」
「は、同じく五千石で高木主水(清秀)殿、
牧野半右衛門(康成)殿、阿部善右衛門(正勝)殿…。」
みな徳川家中の錚々たる武功の士である。内藤これを聞いてさらに、
「いかにもいかにも、御尤もである。」
と喜んだ。
が、この近習の者さらに、
「同じく五千石でその次に誰、その次に誰々…。」
「ち、ちょっとまて!」
内藤、突然顔色を変え、
「高木などと同様の知行を賜るのだから、
五千石というのは武功の優れたるものばかりだと思ったのに、
何だその後の連中は!?
さてさて、殿は男数寄をなさることだ!
ええい、面白くない!」
と、領地である武州羽山に引き籠り、剃髪して善想と名乗った、という。
こうして、家康の知行割に不満で引退した内藤であったが、家康は内藤の行動を許し、
その後も武蔵において鷹狩をするときは、必ず羽山の内藤の屋敷に立ち寄り、
鷹狩の獲物の鳥を手ずから与え、
そこで食事をとり、彼の妻にも会い声をかけていたそうである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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