文禄の頃、伏見が栄えていた時分、豊臣秀吉の近習である早川源蔵というのは、
早川主馬(長政)の息子で勤仕していた。
ある日この源蔵が常番にて伏見城に出仕しているその留守に、
彼の屋敷に武士が一人駆け込んできて、
「何卒かくまってくだされ!」
と頼み込んだ。
屋敷の者達、主人の留守ではあったが、
武家屋敷を見込んで駆け込んだ者を追い出すべきではないので、
まず匿うと、この者は小出大和守の家来で、
後から同家の者達、2,300人が、弓鉄砲を取り揃えて追ってきて、
早川の屋敷を取り巻いた。
この屋敷は奥行き13間ばかりある、細長い屋敷で、
留守居の者達14,5人はなんとか内を防いでいたが、
追手は大勢のため町並の表門がとうとう打ち破られそうに成った。
内からは破られてはならぬと双方打ち合いとなった。
この時、この屋敷の近所に堀丹後守直寄という人があった。
これは堀久太郎家老の同名監物の子であり、
去る天正18年、小田原の陣の後に、丹後守が未だ若年であるのを、
秀吉の眼力にて、兄弟3人の中から、
この丹後を選び側にて召し使っていたのである。
そしてこの日の騒動、堀丹後にとって屋敷の近所のことであり、
そのうえ早川源蔵は、同僚21人の中でも、
常に心安い関係だったので、見捨てることは出来ぬと追取刀にて鑓を取って駆け行った。
その時、
家来もたまたま居合わせなかったので、ただ一人が弓を持って従った。
堀が源蔵宅の裏の小門より入って13間の細小路を槍一本弓一張にて、
主従二人が駆け出てみると、
もはや表門は打ち破られ、追手たち2,3百人がどっと入ってきた。
堀主従は表門と屋敷の間の4間ばかりの所で、これに出合い頭に対峙したのである。
「不慮なる所に入り込んでしまった。討ち死にするにはどういう時節だろうか。」
そう思いながらも是非無く名乗った。
「私は堀丹波守である! 弓取りは我が家来なり。この家主は御城の御番にて留守である!
諸士の家に押し込み、そのうえ亭主の留守をかかる狼藉に及ぶこと前代未聞の所業なり!」
こう大音に叫ぶと、
「弓を引いたまま射つな!」
と下知し、鑓を5つ6つ振り回すと地を叩いて押しかかってきた。
この時の様子は夢幻のように見えたという。
ここで、追手の中に年寄の者2名ほどいたのだが、この言葉を聞いて尤もだと思ったのか、
もしくは堀丹後の必死の有り様に恐れたのか、左右の者達を制して門外に引き退いた。
そこを堀が走りより門を閉め貫抜の木を挿して一息ついた所に、堀丹後の父監物を始め、
寺尾筑後、稲葉兵庫、山岡石見、早多帯刀、富田左近といった人々が追々に駆けつけてきて、
双方の間に入り、この衆の扱いによって漸く無事と成った。
この日の騒動は堀丹後守一人の働きによって、早川源蔵、父主馬をはじめ、
一類に至るまで外聞を失わなかったと、諸人賛美したとのことである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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