小牧・長久手の戦の後、家康は、大坂に訪れ、秀吉に臣従することになり、
井伊直政は、その間の人質として岡崎城に送られてきた大政所・なかの警護を任された。
毎日のように、なかの元に通っては、お菓子を振舞うなどして、
機嫌を伺った直政は、大いに慕われ、事あるごとに、
「井伊殿、井伊殿。」
と声を掛けられたという。
「あまりに、へりくだった態度である。」
同僚から指摘されると、
「秀吉の元にいる家康様に万一の事あらば、
速やかに大政所を殺さねばならないから、
顔を覚えておく必要がある。」
と答えたと言うが、
無事岡崎城に帰った家康と入れ替わりに、
大政所が、京に戻る際も警護を任される程、
信頼は絶大だった。
その後、直政は、警護の慰労として大坂城で、秀吉に接待を受けたのだが、
元徳川家家臣で、
秀吉の家臣となった石川数正を見ると、
「主君に背き、殿下(秀吉)に従う臆病者とは、同席できない!」
と大声を張り上げ、退出してしまった。
また、秀吉が、
「貴殿に、豊臣の姓を与えよう。」
と申し出ると、
「井伊家は、由緒ある名家である。」
と言う理由で辞退した。
理由としては、恩賞や賞賛の言葉で他家の家臣を手なづける、
秀吉のやり方に強い不快感を持っていたからだと言う。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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