備後国荏田、旗返城の城主・江田入道(隆連)はもともと大内氏に従っていたが、
大寧寺の変で大内義隆が滅びると、天文22年(1553)、尼子方に鞍替えをした。
これにより、大内義長の命と称して陶晴賢は遣いを以って、
毛利元就に江田を退治するよう伝えた。
元就は四千騎を率いて備後へと出陣、これを知った江田隆連は出雲へ注進し、
尼子晴久は、
「元就が小勢にて他国へ出たのは願う所である。
急ぎ江田の後詰して元就を討ち滅ぼし、
芸州を切り従えてその後防州へと討ち入るべし!」
と、出雲・伯耆・美作の軍兵二万騎を発した。
ここに備後泉合戦と呼ばれる大規模な戦闘が起こり、
毛利元就は苦戦を強いられながら、
陶晴賢よりの援軍もあり、11月13日、ついに旗返城を開城させた。
さて、問題はその後に起こった。
毛利元就は、児玉若狭守、国司雅楽充両人を使いとして、
大内義長ならびに陶入道(晴賢)に申し入れをした。
『江田の旗返城は毛利家一分の手立てを以って切り取り、
また尼子との国境であり、雲州へ出兵する折の筋道ですから、
かの城は我々に預けていただきたい。』
しかしこれを聞いた陶晴賢は許容せず、
かねてから旗返城には江良丹後守を入れていたのだが、
元就も彼の下知に従わせようとした。
これに怒った元就は、それまで従っていた陶と決別することを決意し、
その頃、かねてから内通していた吉見大蔵大輔正頼が、
居城である石見国津和野で陶に背くと決心したことに、
二宮隠岐守、伊藤三郎左衛門を加勢として、
兵600とともに津和野城に派遣した。
吉見正頼が大内家に背いたことに対し、
陶晴賢は吉見退治のため天文23年3月、
大軍を以って津和野の城を取り囲んだ。
これによって元就にも遣いによって、出陣有るべき旨が伝えられた。
しかし元就はこれに返答せず、その遣いを追い返した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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