小田原の役の事。
小田原の頼りにしていた山中城が一日で落ちたことを知ると、
小田原城中の者たちはあっけにとられ、
城の各口を守っていた将兵もただごとではないと動揺した。
関東武者ともあろうものがと深く不安にかられている所に、
上方勢の総大将である秀吉が、四月一日未明に三島を出馬し、
足柄、箱根を越えて、
小田原の城まで後半里という湯元真覚寺に着いたとの報が届いた。
上方勢の先鋒は、すぐに分かれて、
湯元口、竹ヶ鼻、畑、湯坂、塔ノ峰、松尾岳といった各所より攻めてきたため、
そこを持ち口とする諸隊は臆病風に吹かれ、
未だ敵の姿を見るか見ないかのうちに、
片端から道を開けて小田原本城へ逃げ込んでしまった。
北条氏政父子は改めて急ぎ評定を開き、
畑、湯坂、米神辺りまでは出向いて戦うべきかを尋ねた。
これに対し松田尾張守入道憲秀が進み出てこう答えた。
「勢いに乗って一気に進んでくる大敵に、
気後れのした味方を防戦に出しても所詮負け戦と成るでしょう。
それでは大事な最期の一戦にも負けてしまいます。
それより一刻も早く籠城の策をとって守りを固めることこそ肝要に思います。
後は敵の疲れを待つことです。」
この尾張守の主張に、諸将も奉行頭も誰も異を唱えず、
ただ手をこまねいてその意見を聞いているだけであった。
後で人々は、
「何と情けないことであるか。これでは北条家が滅びるはずである。」
と思いあわせた。
かつて早雲から氏康の時代は、明け暮れに軍事に励み、肝胆を砕き、
寝食を忘れ謀を帷幄の中に巡らせたものであった。
あるいは出て戦って勝利を得、あるいは籠城して兵を休めつつ戦い、
この戦国の世に大敵を四方に受けて、
これを凌ぎつつ領民を安寧に置いて養ってきたのである。
それに比べれば氏政父子は器が小さく、ただ先祖の余光の中に生きて、
いざという時の虚実の策とて無く、
衆を頼んで己を失い、ただ呆然と事態を見守っているだけであり、
これでは国を失っても仕方のないことだ。
「鵜の真似する烏の、水を飲んで死ぬ。」という言葉があるが、
それに似ている。
だから今に至っても、
はかばかしくない評議が「小田原評定」と呼ばれ、
笑い話と成っているのである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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