太閤豊臣秀吉の死後、石佐(石田三成)は天下に反逆を企て様として、
会津黄門(上杉景勝)と謀を共にした。
上杉景勝は会津に下り、ひそかに伊達や佐竹、
相馬といった隣国の諸将を味方に引き入れ様と画策をした。
景勝は山形へも使者を遣わし、
「この度、徳川家康の天下勝手に憤りを感じ、豊臣秀頼公を扶け此を排する試みである。
山形(最上義光)殿も同心するなら是非とも徳川攻めの先手をお頼みしたい。
会津の隣国の誼で格別昵懇にいたしたい。」
という趣の書状を寄越された。
最上義光は、嫡子義康と弟の楯岡光直、
その他本城豊前(楯岡満茂)と志村九郎(志村光安)、鮭延秀綱を召し集め
評定を開いた。
義光、「景勝の考えは多分大坂の秀頼卿がまだまだ幼いので、
家康公を亡ぼし、天下の政道を代わりに執るつもりなのだろうか。
秀頼卿の名を捧げはすれ、実の伴わないものと思われる。
みなも知っての通り私(義光)は家康公に長年厚い郷恩を頂いてきた。
これは山よりも高く、海よりも深いものである。
徳川様のためには一命も惜しくはないが、それを天下に不義なす上杉に一味する等、
馬鹿げた事とは思わないか?」
と仰せられた。
そこに鮭延秀綱が、
「潔い事ではありますが、ちょっと考えてみてください。
上杉は武門の名家、それに東国でも比類なき大々名です。
単独で家康公に敵対する腹積もりはなく、
おそらくは同調する勢力がそれなりに存在する事でしょう。
そこへ戦略もなく、
小兵の味方だけでは上杉を敵に回し千に一つの勝機も難しかろうと存じます。
時間稼ぎをし、その間に景勝の動向を家康公に注進なされてはいかがでしょう?
上杉勢がいざ最上を敵と見做し攻めて来ても、領内で戦えば地の利は味方にあり、
勝機は得る可能性も増えるはずです。」
と進言した。
義光は少し思案し、
「秀綱の言う事ももっともだ。会津へは今少し時間を貰える様使者を出し、
徳川様には上杉軍が味方を募っている旨を報告しよう。」
と答えた。
そこへ上杉家から、
「味方として軍費の足しに用いてほしい。」
と多額の金銀が送り届けられた。
義光は、
「…時間を引き延ばしてごまかしていたら、
戦費を贈られて既成事実を先に作られてしまったか。
これではとうてい味方をしないと言っても、
裏があるのではないかと疑われてしまう。
とうてい上杉に助力等できないのだから、この金銀を会津に返し、
きっぱりと最上家の旗色を示すべきである。」
と言ったが、
本城豊前(楯岡満茂)は、
「今後の事はさて置き、上杉が最上に猜疑心を持たない様時間稼ぎにもなりますから、
貰える物は貰っておいた方が宜しいのではないでしょうか?」
と義光を説得した。
義光、
「…些(いささ)か後ろめたさはあるが、これも窮余の一策…
軍費に一部を宛てがい、残りは皆で配分せよ。」
と上杉家からの金銀は番頭物頭は言うに及ばず、
馬廻りの武士以下にまで残らず分け与えられた。
家康公の御恩は上杉家からの金銀等には比べものにならないものである。
義光公のお心の奥底では駒姫の件で、
豊家をお恨みなされているともお聞きした事がある。
叶う事はなかったが駒姫の助名嘆願にも家康公が最上家を格別に懇得なされている事は、
義光公も常々忝なく思っている事である。
家康公の御恩を思わば、上杉家を謀(たばか)る事もやむを得ない事である、と、
最上領の人達は旗色を定め、上杉とのいくさを決断する気持ちとなった。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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