政宗死後の、様々な不思議な出来事☆ | げむおた街道をゆく

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寛永13年5月24日(1636年6月27日)、伊達政宗は江戸において死去した。

江戸での葬儀の後、政宗の死骸は乗物に乗せられ仙台へと出発した。
 

ところがこの乗物が、日を追うごとに重くなり、

江戸を出た頃はわずか10人ほどで担いでいたのが、
後の方には30余人でようやく担いでいた。

それに加えて、何より不思議だったのが、死骸の乗物の先に、

政宗が日ごろ愛蔵していた鷹二羽が、鷹匠の手に据えられた状態で、

仙台へと下っていたのだが、江戸から離れて千住の少し先において、

先を行っていた鷹が突然、鷹匠の拳に強くしがみつき、

羽を少し出すように見えたが、そのまま拳から落ちて死んでしまった。

鷹匠は、

「これは!?」

と驚き後ろの鷹匠を見ると、後の鷹も、先の鷹と全く同じように、
拳より落ちて死んでいた。
 

本当に不思議な事である。

このようにして、政宗の死骸は、忌中30余日にて、

仙台に到着し、覚範寺に入れられた。
 

これは松島(瑞巌寺)が狭かったためである。
そのうちに高野山を始めとした他国の出家衆も諷経のため参集した。

さて、死骸が仙台に着いて3日過ぎると、

政宗に束帯の装束、冠を着け、太刀、腰の物、脇差しを入れ、
人が静まった後、御城より南、愛宕のわきに堅固の地を見立て、

乗物を石の唐櫃に入れて、
一丈あまり(およそ3メートル)ほど掘りそこに沈め、

その上に、嫡子忠宗が御霊屋を建立した。

ところで、ここで死骸を納めるための土を掘っていた時、

何かの蓋にしたような、大石が掘り出された。
 

古き人がこれについて、

『これこそ昔、万海上人がここに葬られた時にその棺の蓋石であろう。』

と申していた。

 

確かに、この伊達政宗という殿は、

万海と呼ばれた上人の再誕であると言われていたが、
なんという有難き奇縁だろうかと、人々は話し合った。

この御霊屋は瑞鳳殿の名付けられ、保春院(清岳)が導師として、

自分の寺は金蔵主という僧に渡し、
自身はこの霊屋の下に新寺をたて、正宗山瑞鳳寺と言った。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 独眼竜政宗・異聞、目次

 

 

 

 

 

ごきげんよう!