島津家久(忠恒)は、
石田三成の根回しなどもあって、従姉妹の島津亀寿と結婚し、
島津家の世子に納まったが、
この亀寿は、若死にした家久の兄嫁だったということなどもあり、
非常に不仲であった。
しかし、亀寿の父の島津義久が、先代の当主で家中に発言力も絶大であり、
なかなか離婚できなかった。
慶長16年に義久が亡くなると、
せいせいしたとばかりに亀寿を鹿児島城から追い出して、
若い側室を次々に囲った。
この年の事実上の離婚から63歳で死ぬまで24年間の間に、
今までの鬱憤をはらすかのように32人も子供を作りまくった。
更に亀寿を経済的に圧迫し、一時は通常の生活を出来ないところまでおいこんだらしい。
しかし、そこまでしても亀寿に対してはずっと怨念が晴れなかったようで、
寛永7年に亀寿が亡くなると、
それを報告した侍女に対して亀寿への挽歌として以下の一首を送った。
「あたし世の 雲かくれ行 神無月 しくるる袖のいつはりもかな」
(亀寿は11月にこの世を去ってしまった。妻の死に袖も絞れるほどに泣いてる
…というのは嘘。)
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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