島津義久に実子がおらず、
義久三女である亀寿の婿である島津忠恒が養子に入り、
後継者となったというのは有名な話であるが、
実はもう一人候補がいた。
それが義久の次女新城と島津彰久の間の子である島津久信という若者で、
女系ではあるが義久の孫に当たる人物である。
そもそも義久自身も豊臣政権の介入によって、
次期後継者を決められた経緯もあってか不満があったらしく、
慶長4年(1599年)に一度家督を譲ったにも関わらず、
その二ヶ月後には島津家当主の証である「御重物」を没収するなど、
忠恒との仲は微妙であった。
関が原の合戦の後も義久は久信を可愛がっており、
やがて後継者に据えようとしているという話が島津家中では絶えず、
ついには、
「義久が久信を後継者にする朱印状を徳川政権から得た事で、
忠恒の父義弘が異議を申し立てた。」
という噂さえ立つなど家中の統率は乱れた。
こうした事態に、義久はついには正八幡宮に参詣し神の力・・・要するに「くじ引き」で、
どちらが後継者にふさわしいかを決める事にした。
こうして行われたくじ引きでも後継者にふさわしいと出たのは、
忠恒の方であったので、
義久も忠恒を後継者と認めることにしたという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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