永禄二年の四月上旬、上杉景虎は二度目の上洛をした。
同月二十六日に、上使大館左衛門佐輝氏が御内書持参にて、景虎の文の裏書き、
並びに塗輿、朱柄傘を御免になり、屋形号、並びに「輝」の字を下され、
斯波、細川、畠山の三管領に準ずると云々。景虎はこれを拝受した。
その御礼として宿舎より京に入った。これより景虎を改め、輝虎と号した。
その御礼に向かう途中において、
三好の家来の士と松永弾正少弼久秀の家人が馬上にて行き合い、
無礼であったために輝虎は怒り従士に下知して、たちまち討ち捨て頭を刎ねた。
近年三好、松永の威勢強く、これに並び立てるような者も無かったのだが、
輝虎は斯くの如くの対応をし、これに貴賤上下、輝虎を恐れること斜め成らずであった。
そして三好、松永はこれに一言も云うことが出来なかった。
世に伝わる話に、堺に宿泊した折、旅宿の主人が草足袋を履いて見目に出たことに、
輝虎は、「その体無礼なり。」と怒り、その主人を手討ちにした。
これに堺の者達千人ほどが怒って、輝虎の旅宿を囲んだ。
そこで輝虎はその家に火を懸け切って出て、
彼らを追い散らした後、静かに京へと帰った。
輝虎の懸けた火は延焼し、堺において数千軒が焼失した。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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