亘理元宗 (わたり もとむね) | げむおた街道をゆく

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亘理 元宗(わたり もとむね)は、戦国時代の武将。伊達氏の重臣。亘理氏第17代当主。陸奥国亘理郡亘理城主。



ー 生涯 -
享禄3年(1530年)、伊達稙宗の十二男として生まれる。
天文12年(1543年)3月、外祖父・宗隆の養嗣子となっていた同母兄の綱宗が討死したため、その後を承けて亘理氏の跡取りとなり、天文の乱終結後に家督を相続した。この頃の所領は亘理郡の20か村、伊具郡の6か村(藤田村、島田村、枝野村、尾山村、坂津田村、平貫村)、名取郡の長谷村であった[1]。それまでの亘理氏の居城であった小堤城の北東に、新たに亘理城を築いて移った。
天文21年(1552年)には、長兄・晴宗の命を受けて上洛した。この折に武田信虎の知遇を得て、佩刀「綱広」を贈られた。
永禄13年(1570年)4月、甥の輝宗が中野宗時を討伐した際には、逃げ延びる宗時らを刈田郡宮河原で迎撃した。名取郡の小川村と笠島村、伊具郡の小田村、長井(置賜郡)の河原津村の4か村を加増された[2]。
天正2年(1574年)、輝宗が天正最上の乱に最上義守方として参戦すると、最上領に通じる篠谷口へと出陣。9月には和平交渉のため最上氏重臣・氏家守棟と会談し、同月10日に和睦が成立した。
天正6年(1578年)、輝宗が越後への介入を開始すると、相馬盛胤との戦の指揮を一任された。
輝宗の子の政宗の代にも人取橋の戦い・葛西大崎一揆鎮圧等に従軍するなど、伊達一門の重鎮として軍事・外交面で引き続き活躍した。
天正19年(1591年)、伊達家の岩出山移封に伴い、遠田郡涌谷城に移され885貫5文(8850石)を領した[3]。。
文禄3年(1594年)6月19日、遠田郡大貫にて病死した。享年65。
子孫は仙台藩の一門である涌谷伊達家となる。


以上、Wikiより。



亘理元宗