龍造寺家晴 (りゅうぞうじ いえはる) | げむおた街道をゆく

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龍造寺 家晴(りゅうぞうじ いえはる、? - 慶長18年(1613年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。肥前佐賀藩の重臣。父は龍造寺鑑兼。龍造寺四家のひとつ諫早家の始祖。
1580年の筑後国柳川城攻めにおいて第三陣を率いて出陣した。龍造寺隆信死後、鍋島直茂が佐嘉城に移ると代わって柳川城主となる。その後龍造寺氏の動揺に合わせ、大友宗麟が立花道雪、高橋紹運を柳川城に派兵したがこれを防いでいる。また、龍造寺氏にとっては大恩ある蒲池鑑盛の嫡子の蒲池鎮漣を謀殺し、その一族を皆殺しにした隆信とはやや距離を置き、蒲池氏一族の蒲池貞久を家臣にしている。
主君・隆信の跡を継いだ龍造寺政家は、豊臣秀吉の九州征伐による国割りにより、肥前国7郡の所領を安堵されたものの筑後国の所領を没収された。そのため柳川城は立花宗茂の与力、三池鎮実に給され、家晴は所領を失った。家晴は大坂への帰途にあった秀吉を追い、下関の赤間関にて嘆願した結果、九州征伐に参陣しなかった肥前国高来郡伊佐早領主・西郷信尚の所領を没収して与えられることが決せられた。家晴は自軍の2500騎、政家よりの援軍1000騎をあわせた軍勢で伊佐早を攻め、西郷信尚を居城の高城から島原に追って所領とし、地名の字を諫早に改めた。
龍造寺氏の領国の実権を握った鍋島氏と龍造寺隆信の孫高房の相克における幕府からの呼び出しに際しては龍造寺信周、龍造寺長信(一説には息子の多久安順)と共に上京し、鍋島氏への権力移譲を容認した。以後、家督を継いだ嫡子の直孝より龍造寺の名をはばかって諫早へと改姓し、幕末まで龍造寺四家の一つとして存続した。


以上、Wikiより。



龍造寺家晴