山田宗昌 (やまだ むねまさ) | げむおた街道をゆく

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山田 宗昌(やまだ むねまさ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将。日向伊東氏の家臣。



ー 経歴 -
天文13年(1544年)、日向国にて伊東氏の家臣の新山城主・山田宗継の子として生まれる。
天文25年(1555年)には北郷氏との合戦で、敵将・亀沢豊前守を組み打ちの末に討ち取るなど、伊東家中でも屈指の将として活躍する。
天正5年(1577年)、伊東義祐が薩摩島津氏に敗れて没落し、豊後の大友宗麟の下に逃れると、翌天正6年(1578年)、宗麟は伊東氏の救援を名目に日向へと出兵。これに呼応して宗昌は長倉祐政らと石城に籠城し島津軍と戦ったが、続く耳川の戦いで大友軍が大敗を喫したため、豊後へと撤退した。この後義祐は伊予へと去り、伊東家は離散してしまう。この時、宗昌は豊後に残留して栂牟礼城主・佐伯惟定の元に身を寄せ、入道して匡得(京得)と号した。
天正14年(1586年)、薩摩島津氏と豊後大友氏の間に豊薩合戦が起こる。栂牟礼城に島津家久が攻め寄せた堅田合戦の際には、島津軍の勧降使を斬殺し、まだ若年の惟定の参謀役を務め、城から打って出る際には惟定の代わりに佐伯軍の指揮を行い、山田宗昌の計略と佐伯兵の奮戦により、家久率いる島津軍を撃退した[1]。
翌天正15年(1587年)、豊臣秀吉が九州征伐に乗り出すと、日向路を進む豊臣秀長の軍に合流して先導役を務めた。日向脱出後に上方に上り、秀吉旗下となっていた伊東祐兵(伊東義祐の子)が九州平定戦での功を認められ、同年に旧領の飫肥を与えられて大名復帰を成し遂げると、惟定の下を辞して伊東家に帰参した。この時、祐兵からは家老職を打診されたが、これを固辞して酒谷城主となり、300石を知行した。
元和6年(1620年)6月3日、死去。享年77。



ー 人物・逸話 -
匡得の号は、自ら「大江匡房の兵法を会得せり」と称したことによるという。
宮崎県日南市の四半的弓道は宗昌が国境防衛策と娯楽を兼ねて振興した物と伝わっている。


以上、Wikiより。



山田宗昌