最上義守 (もがみ よしもり) | げむおた街道をゆく

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最上 義守(もがみ よしもり)は出羽国の戦国大名。最上氏第10代当主。中野義清(よしきよ、中野義建(よしたつ)の子で最上義淳の孫)の子。最上義光の父、伊達政宗の外祖父にあたる。



ー 生涯 -
永正17年(1520年)、最上氏当主で義守の大伯父・義定が嗣子の無いまま没すると、義定の義兄であった伊達稙宗は最上家を傀儡化しようと企てた。同年、上山城主の上山義房が伊達家に反旗を翻すと、稙宗は破竹の勢いで上山・山形・天童・高擶(たかだま)を落とし翌大永元年(1521年)寒河江氏を攻める。この時伊達軍は葛西・相馬・岩城・会津・宮城・国分・最上の軍勢を集結したという。稙宗は周辺豪族と和議を結び傘下に加えたものの最上氏の後継指名においては豪族たちの抵抗にあい妥協し、大永2年(1522年)一族の中野氏から義守が当主として迎えられ、わずか2歳で家督を継いだ。
天童氏の焼き討ちにより荒廃した立石寺を天文4年(1535年)再建させるなど、最上家領内の復興に努めた。この頃の最上氏は伊達氏に事実上服属していたが、天文11年(1542年)に稙宗・晴宗父子の間で天文の乱が発生すると、重臣の氏家定直や谷粕相模守の補佐を受けつつ稙宗方に属して参戦し、長谷堂城を奪還して伊達氏から独立し勢力の拡大を図った。さらに長井郡にも進出したが、蘆名氏が晴宗方に転じて形勢が逆転すると義守も晴宗方につき、乱は晴宗方の勝利に終わった。天文12年(1543年)立石寺に対して比叡山延暦寺の分燈を得た。永禄3年(1560年)には寒河江城主・寒河江兼広を攻めるなど、勢力拡大に勤めるが不首尾に終わった。この年、将軍足利義輝に使者を送って嫡男の義光に偏諱を賜り、翌永禄4年(1561年)には返礼として義輝に鷹を贈っている。永禄6年(1563年)には義光とともに上洛し、義輝に謁見した。この際御所号[1]で対応された。
元亀元年(1570年)頃、当主の義守と嫡男の義光父子の間で諍いが生じる。5月に重臣・氏家定直の仲裁で父子が和解したが、8月には義光が家督を相続し(翌年とも)、翌元亀2年(1571年)に隠居の義守は出家して「栄林」と号した。しかし天正2年(1574年)1月、両者の間が再び険悪になると、伊達氏からの独立傾向を強めていた義光を抑えるべく、伊達輝宗が岳父・義守救援の名目で最上領内に出兵する。天童頼貞・白鳥長久・蔵増頼真・延沢満延らが義守・輝宗に同調、義光派の寒河江氏を攻める。義守派有利で和睦がされたが義光は敵対勢力を個別に撃破し、9月10日には義光有利のうちに和議が成立して伊達氏も撤兵した。
天正18年(1590年)5月18日死去、享年70。義光は父の葬儀により小田原征伐参陣が大幅に遅れたが、徳川家康のとりなしにより本領を安堵された。



ー 逸話 -
天正最上の乱の原因として、義守は次男の義時を溺愛し、義光を疎んじて高擶に幽閉したとされる。義光は幽閉先から脱出し、クーデターを起こすとこれに伊達輝宗が干渉し内乱となるが、重臣・氏家定直の仲介で和睦した。しかし定直の死後、再び義守は義光と争って敗れ、強制的に隠居させられたという。中野義時の実在性に疑問が呈されるなど、後世の創作ともされる。


以上、Wikiより。



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