松平信康 (まつだいら のぶやす) | げむおた街道をゆく

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松平 信康(まつだいら のぶやす) / 徳川 信康(とくがわ のぶやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川家康の長男(嫡男)。母は瀬名義広の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主(愛知県岡崎市)を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗った。



ー 名乗り -

現在では一般的には松平 信康と表記されるが、父の家康は信康の元服以前の永禄9年(1566年)に既に徳川に改姓しているため、生前は徳川 信康と名乗っていたということになる。しかし、江戸時代に入ってから江戸幕府が「徳川」姓は将軍家と御三家のみに限るという方針をとったため、信康は死後になって「松平 信康」に格下げされたという[2]。



ー 生涯 -

永禄2年(1559年)3月6日、松平元康(後の徳川家康)の長男(嫡男)として駿府で生まれる。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごしたが、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移る。
永禄5年(1562年)、家康と織田信長による清洲同盟が成立する。永禄10年(1567年)5月、信長の娘である徳姫と結婚し、共に9歳の形式の夫婦とはいえ岡崎城で暮らす。同年6月に家康は浜松城(浜松市中区)に移り、岡崎城を譲られた。7月に元服して信長より偏諱の「信」の字を、父・家康から「康」の字をそれぞれ与えられて信康と名乗る。元亀元年(1570年)に正式に岡崎城主となる[3]。
信康は若い頃から勇猛果敢で、天正元年(1573年)に初陣する[3]。
天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは徳川軍の一手の大将として参加し[4]、その後も武田氏との戦いでいくつもの軍功を挙げ、闘いぶりが注目された。特に天正5年(1577年)8月の遠江横須賀の戦いで退却時の殿軍を務め、武田軍に大井川を越させなかったと伝わる。岡崎衆を率いて家康をよく補佐したという。
天正7年(1579年)8月3日、家康が岡崎城に訪れ、翌日信康は岡崎城を出ることになり、大浜城に移された。その後、信康は遠江の堀江城、さらに二俣城に移されたうえ、9月15日に家康の命により切腹させられた。享年21(満20歳没)。信康の首は一度信長の元に送られ、その後、若宮八幡宮に葬られた。なお、ほぼ同時期に松平家忠をはじめとした徳川家臣たちが「信康に内通しない」という起請文を書かされている。



ー 信康自刃事件について -

事件の通説
信康の切腹については『三河物語』の記述が詳しい。それによると、織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣・酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされる。信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めた[注 1]。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。徳川家中では、信康への処断に対して反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もあった。傅役の平岩親吉は、責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めた。しかし家康は、徳川家の老臣が既に認めてしまった以上、そのような小細工では信長の怒りを反らすことは出来ないと判断し、信康の処断を決断した。8月29日、まず築山殿が二俣城(守将は大久保忠世)への護送中に佐鳴湖の畔で、徳川家家臣の岡本時仲、野中重政により殺害された。さらに9月15日、事件以降の幽閉先であった二俣城(浜松市天竜区)にいた信康に切腹を命じた。介錯人は服部正成だったが、正成は主命とはいえ主筋に刃を向けることが出来ず、検死の武士・天方道綱が介錯にあたった。

信康と築山殿の不行状と疑問
信康や築山殿の乱暴不行状については『松平記』『三河後風土記』の両書がくわしい。この一方大久保彦左衛門の『三河物語』には優れた武勇や、孝心を称賛する内容となっており人格に対する否定的な記述ではない。信康については、
気性が激しく、日頃より乱暴な振る舞いが多かった。
領内の盆踊りにおいて、服装の貧相な者や踊りの下手な領民を面白半分に弓矢で射殺した。「殺した者は敵の間者だった」と信康は主張している。
鷹狩りの場で一人の僧侶に縄を付けて縊り殺した(狩の際、僧侶に出会うと獲物が少なくなるという因習を信じ、狩に行く際にたまたま出会った僧に腹を立てたため)。これに対して信康は後日、お詫びをしている。
五徳が産んだ子が二人とも女子だったので腹を立て夫婦の仲が冷え切った。
というものである。また、『当代記』にも、信康は家臣に対し無常・非道な行いがあったとしている。だが、これらの行動はあまりにも理不尽なために、単なる中傷として解釈されることもある[5]。
築山殿については、「家康が今川方を裏切り織田方に付いたため、父が詰め腹を切らさせられたことを恨み、家康をひどく憎んでいた。そして減敬という唐人の医者を甲斐から呼び寄せて愛人にして、密かに武田氏に通じた」というものである。これらのうち、特に減敬のエピソードについては築山殿を貶める中傷であるともいわれる[5]。

通説への疑問
五徳(徳姫)との不仲は松平家忠の『家忠日記』によると事実のようだ[6]が、不仲や不行状というだけで信長が婿の信康を殺そうとするのか疑問である[7]。
また、家忠が日記に記した「家康が仲裁するほどの喧嘩相手」の部分は原著では「御○○○の中なおしニ」と破損しており、信康が仲違いしたのは「御新造」(徳姫)ではなく「御家門」(松平康忠、久松俊勝、松平康元)であるとの説も提示されている[8]。また「御母様(=築山殿)」の可能性もあるし、「御前様」つまり家康の生母・於大の方の可能性もある[8]。御前に関しては天正3年(1575年)12月に信長の命令を奉じた家康の意を受けた石川数正によって実兄の水野信元が殺害されており、数正は信康の後見人であるため、祖母と信康の仲が険悪になっていた可能性がある[8]。ちなみに数正は後年に徳川家から出奔している[8](橋場日月の説)。
また、この時期の信長は相撲や蹴鞠見物に興じていて、このような緊張関係を同盟者である家康に強いていた様子は伺えないし、徳川政権成立後に、事件の発端となった五徳に対して、家康が2,000石の領地を与えている理由もよく分かっていない(実際に所領を給与したのは五徳の義弟にあたる松平忠吉)[9]。
さらに、築山殿がいかに家康の正室といえども、武田氏と裏で外交ができるような力があったかも疑問である。しかも、信長は信康の処断についてのみ触れ、築山殿については何も言っていない。それにも関わらず、家康は築山殿を連座させており、いずれも不可解である[9]。
また、『三河物語』では、信康を庇わなかった酒井忠次は「知らないと言えばいいのに」と家康に嘆かれ、他の家臣達に憎まれたとされているが、その後も徳川家の重臣の地位に留まり、3年後の信濃制圧の際には新領の最高責任者になっている[10]。 家康が築き上げた信康の墓は質素なもので、改葬すらされていない[9]とする説があるが、家康は後に信康のため、浜松に清瀧寺を建立し信康の菩提寺に指定し、廟、位牌殿、庫裡、方丈、不動堂、山門、鐘楼などが建設しており、「信康山長安院清瀧寺」と号させている。また各所に墓所を建立してるので、これは誤りである。(#墓所・祭祀も参照せよ)

父子不仲説
このため近年では、家康が信長に要求された為というより、家康と信康の対立が原因という説が唱えられるようになった。
『三河物語』では信長は「(信康)切腹させよ」と答えているが、『安土日記』(『信長公記』諸本の中で最も古態をとどめているもの)や『当代記』[注 2]では、信康処断の理由は「逆心(=謀反)」であり、また家康と信康の間に問題が起こったため家康の方から忠次を遣わし、嫁の父である信長に相談したと読み取れる。また信長は「信康を殺せ」とは言わず、「家康の思い通りにせよ」と答えている。これは家康自身の事情で築山殿と信康を葬り去ったということのようである[11]。また『家忠日記』によると、事件が起きる前年の天正6年(1578年)9月22日に、家康から三河国衆に対して、(信康のいる)岡崎に詰めることは今後は無用であるとの指示が出されたことが記されている[12]。さらに家康は、信康を岡崎城から追放した際、信康と岡崎衆の連絡を禁じて自らの旗本で岡崎城を固め、家忠ら岡崎衆に信康に内通しないことを誓う起請文を出させており、家康と信康の間で深刻な対立があったことが伺える[13]。
また『大三川志』には、家康の子育て論として「幼い頃、無事に育てさえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても、信康は親を敬わず、その結果、父子の間がギスギスして悲劇を招いてしまった」[14]とあり、『当代記』にも信康が家康の命に背いた上に、信長をも軽んじて親・臣下に見限られたとあり、信康の性状を所以とした親子の不和が原因であることを伺わせる。
また信康の異母弟・松平忠輝は、その容貌などから父・家康に嫌われ続けたが、忠輝が7歳の時に面会した家康は次のような発言を残している。「面貌怪異、三郎(松平信康)ノ稚顔ニ似タリ」(野史)。「恐ろしき面魂かな、三郎が幼かりし時に違ふところなかりけり」(『藩翰譜』)。この発言から、信康の面影を見いだしたがゆえに家康は忠輝を恐れ嫌ったことが伺える。
ただ家康は晩年になって「父子の仲平ならざりし」とこの時の事件について後悔している[15]。

派閥抗争説
作家の典厩五郎は、この時期の徳川家は、常に前線で活躍し武功と出世の機会を多くつかんでいた浜松城派と、怪我で戦えなくなった者の面倒や後方支援や(織田家との)外交問題を担当していた岡崎城派に分裂する兆しがあり、両者の対立が家康と岡崎城派に担がれた信康との対立に発展し、最終的に信康が幽閉先で服部正成に暗殺された疑いがあるとして、この事件から甲斐武田家における武田義信事件のように信康を担いで岡崎衆による「家康追放」未遂事件があったとする説を唱えている。また信康の処刑と前後して岡崎城に勤める多くの重臣や奉公人が次々と懲罰や処刑に追い込まれ、逐電(逃亡)する者が続出し、派閥抗争の末の粛清や懲罰があったと唱えている[注 3]歴史研究家の谷口克広も典厩の説を支持し、岡崎衆は家康への不満か家康の旗本に対する反発から信康を担いでクーデターを起こすことを企み、築山殿もそれに関係していたのではないかと推測している[16]。

その他・家臣団との対立
村岡素一郎が説いた徳川家康の影武者説では、徳川家康と松平元康を別人として、家康と信康との親子関係を否定している。信康の成人後、家康が信康に家督を譲渡する誓約がなされていたが、家康に実子が生まれたため、家康により信康の排除が行われたと、著書「史疑徳川家康事蹟」で村岡は主張している。
詳細は「徳川家康の影武者説」を参照
信康は勇猛なためか横暴な面があり、家臣の松平親宅は「御若気の儀これあり候につき、毎度御諌め申し上げ候えども」として信康により追放されている(『寛政重修諸家譜』)。また信康は同母の妹である亀姫が武田信玄没後に徳川に寝返ったにすぎない奥平信昌の正室になる(つまり義弟になる)事に「敵方の者を聟にはなかなか成し難し」と強硬に反対した(『三河東海記』)話もあるなど、信康と家臣団の間で軋轢が生まれていた面も伺わせる。



ー 人物・逸話 -

親子の仲に関しては、信康は父の家康から溺愛されており、『徳川実紀』には小山城攻めで攻城を諦めて撤退する際、信康は殿を務めた。信康はこれを成功させ、家康から大いに褒められたという。
武勇に優れた武将で、以下の逸話が伝わっている。
ある戦で武田軍相手に殿軍を務めて一歩も引かず、家康は「まことの勇将なり。勝頼たとえ十万の兵をもって対陣すとも恐るるに足らず」と驚嘆した(『大川三志』)。
勝頼の本陣間近まで共一人を連れて物見を行ない、家康に決戦を進言した勇猛さを見せつけた(『松平物語』)。
信康が話すのは戦のことばかり、やることは乗馬と鷹狩りばかりで、典型的な武辺者だったという(『三河物語』)。
信長は信康を恐れていたという(『寛元聞書』)。故に築山殿事件の黒幕は信長ではないかという説もある。[要出典]
冷遇されている異母弟の結城秀康を信康は不憫に思い、父・家康との対面を果たさせる[17]など、弟思いな面があった。
信康は、二俣城主で家康の信頼厚かった大久保忠世に自らの無実を改めて強く主張したが、服部正成の介錯で自刃したという。この時、正成が涙のあまり刀を振り下ろせず、検死の武士天方道綱(山城守)が代わって介錯したとの話も残る。道綱は家康が嘆き悲しむのを見て畏れ出家したと言われる(『柏崎物語』)。
信康の切腹には殉死者[注 4]を出すほどの人望があった。
ある日、幸若舞を忠世・忠次と共に見た時、主のために自分の子の首を差し出す場面を見て落涙した家康が「両者あれを見ろ」と言い、それに対し両者が恐縮したという(『東武談叢』)。
後年、酒井忠次が嫡男・家次の所領が少ないことに対する不満を家康に訴え出たところ、「お前も我が子が可愛いか」ときつい嫌味を返したという逸話が残っている』(『東武談叢』)。
関ヶ原の戦いの前夜に、信康の孫娘と小西行長の嫡男・兵庫頭の婚約が、家康から行長に持ちかけられている。この孫娘は、親等では福島正則の養子正之と結婚した満天姫とほぼ等しく、家康の血を引くという点ではより近い血縁といえる。婿として国主大名の嫡子が選ばれていることは、信康の血統が重視されていた証拠といえる。また信康の家臣のうち、主だった者には交代寄合に任じられている者もおり、家康の信康に対する信任が伺える。
家康も信康の死をいたく悲しみ、関ヶ原の戦いで三男の秀忠が遅参した時、「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ」と言ったという[3]。なお、関ヶ原の戦いが起こったのは奇しくも信康の21年目の命日であった(『武辺雑談』)。


以上、Wikiより。



松平信康