真柄直隆 (まがら なおたか) | げむおた街道をゆく

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真柄 直隆(まがら なおたか、天文5年(1536年) - 元亀元年6月28日(1570年8月9日))は、戦国時代の武将。朝倉氏の家臣。十郎左衛門。弟に真柄直澄、子に真柄隆基。北国の豪傑として知られる人物で講談(講釈)や軍記物にしばしば登場する。あまりに弟直澄の資料が少ないため、直隆と同一人物とする説もある。



ー 人物・略歴 -
越前国・真柄荘の国衆として朝倉氏の客将となり、上真柄の地に居館を構えた。但し、真柄氏は朝倉家中では堀江氏などとともに、在地性・独立性が強い国人衆で、越前に足利義昭が頼ってくるまで、朝倉氏に臣従的態度を取りつつも、軍役を一部負担するだけという立場で、朝倉家の完全な家臣という立場ではなかった[1]。
朝倉家中でも武勇に優れた人物で、黒鹿毛の馬に跨り、越前の刀匠千代鶴の作による五尺三寸(約175センチ)もの太刀「太郎太刀」を振り回して戦ったという[2]。足利義昭が朝倉義景を頼って一乗谷に来た際、御前で大太刀を軽々と頭上で数十回振り回し、豪傑ぶりを披露したという[3]。文献によると、体格は身長2メートルを超え、体重250キログラムに達したという[4]。
元亀元年(1570年)、姉川の戦いでは太郎太刀を振って奮戦するも、朝倉陣営の敗戦が濃厚になると味方を逃がすべく、単騎で徳川軍に突入し、12段構えの陣を8段まで突き進んだ。だが、向坂三兄弟の攻撃を受け力尽き、「我頸を御家の誉れにせよ」と敵に首を献上して果てた[5]。この時、向坂兄弟が討ち取った時に使用した太刀は「真柄斬り」と名付けられ、名刀の一つになっている。なお、弟の直澄と子の隆基も勇猛で知られたが、この戦いで討死している。だが、朝倉氏滅亡後の天正11年(1583年)に「真柄加介」宛てに丹羽長秀から知行安堵状が発給されており、一族はその後も存続していることが窺われる。
太郎太刀は現在、愛知県名古屋市の熱田神宮宝物館に奉納されている。熱田神宮にある物が直澄の次郎太刀で白山比咩神社にある物が直隆の太郎太刀という説もある。


以上、Wikiより。



真柄直隆