本多重次 (ほんだ しげつぐ) | げむおた街道をゆく

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本多 重次(ほんだ しげつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。徳川氏の家臣。本多重正の子。子は越前丸岡藩主・本多成重。通称は作左衛門(さくざえもん)。



ー 生涯 -

享禄2年(1529年)、本多重正の子として誕生。通称は作左衛門で、その勇猛果敢で剛毅な性格から「鬼作左(おにさくざ)」と呼ばれた。
三河国の戦国大名・徳川家康に仕え、天野康景、高力清長と共に三河三奉行の一人として、行政面に力を発揮した[1]。法に対して厳格で他人に対しても厳しかった(間違っていると思えば、主君である家康に対してすら激しく指摘した)が、恩賞に対しては公平清廉で、法令に対しても仮名書きでわかりやすく書いて民衆に触れやすいように記したといわれている。
また武将としても活躍し、特に三河一向一揆鎮圧戦などで大いに戦功を挙げた。また、小田原征伐においては、自ら勧誘した向井正綱と共に梶原景宗率いる北条水軍を迎撃してこれを打ち破っている。
ところが、小田原征伐後に家康が北条氏旧領の関東へ移封後、豊臣秀吉の命を受けた家康により、上総古井戸(小糸とも。現在の千葉県君津市)3,000石にて蟄居を命じられた。その後、蟄居先が下総国相馬郡井野(現在の茨城県取手市井野)に変更される。
文禄5年(1596年)7月16日、68歳で死去。墓所は茨城県取手市にある茨城県指定史跡「本多重次墳墓」。福井県坂井市丸岡町の本光院にも墓がある。



ー 人物・逸話 -

家康への忠義
家康の次男・結城秀康の母・於万は家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが、家康の手が付いて秀康を身籠った。家康は築山殿の悋気を恐れ、於万を重次のもとに預け、秀康は重次に匿われている中村家住宅で誕生した。
天正13年(1585年)3月に家康が疔(ちょう。悪性のできもの)を病み、激痛の余り一時重態となった。この時、徳川領内に明から来たという名医がいたため、重次は家康に受診を勧めたが、家康は異国の医者に受診されるのを嫌った。すると重次は「良医の治療を拒否して死を願うとは、何と勿体ない命か。殿に遅れて死ぬのは悲しく、我が身の果ても惨めなので、一足お先に死ぬ事にしました」[註 1] と述べて退出した。家康は重次の一徹な性格を知り尽くしていたため[2]、本気で殉死するつもりだと直感した家康は慌てて近習を走らせて強引に戻らせて「若い者を指導して我が家の絶えないように頼む」と懇願した。しかし重次は「最期の暇を願い出たはずです」と拒否した。そして重次は「我は幼きより軍を率い、眼を射られ指を落とされ、足を斬られて負わぬ傷は無く、世に交われぬほど今では身体は不自由になりました。その我が今ここにあるのはひとえに殿のおかげです。殿に代われる人は我が家におりませぬ。殿が亡くなれば秀吉か北条がこの国を狙うでしょう。かつて甲斐の武田家は我が家より大きく武勇抜群の士も数多いながら滅び、我が家に召し抱えられた者達は我等よりずっと下の地位に置かれて耐えております。殿が亡くなれば、我等は武田と同じ運命を辿るだけです」と述べた上で医師の治療を勧め、家康も了承して治療を受けて全快した。この時に家康の命を諫言する事で救ったからこそ、後に徳川は天下を取れたのである[3]。

鬼作左の由来
重次は気性が荒く、家康にも遠慮なく諫言した。また武勇に秀でており、三方ヶ原の戦いでは大敗した徳川軍の中で、自ら敵兵数十人に囲まれて絶体絶命に陥る中、敵兵の繰り出す槍をたぐって1騎を落馬させ、首をかき切ってその馬を奪って浜松城に逃げ込んだという逸話も伝わる[1]。
性格に関して新井白石は「重次は恐ろしげに見え、言いたい放題を言い、思慮のあるようではなく、奉行など務まる柄ではないように思えた。だが心正しく、しかも民を用いるのに配慮があり、訴訟をよく聞き事を明らかにした」と評価している[註 1]。

体格
戦傷のため、片目片足で指も何本か欠損していたと言われている。

蟄居の理由
重次は度々秀吉の怒りを買っていたとされる。
家康の次男・於義丸(後の結城秀康)と共に人質として秀吉に差し出されていた息子・仙千代(後の本多成重)を「母親の看病をさせたい」と嘘をついて呼び戻した[4]。
天正14年(1586年)、家康が秀吉に臣従を誓い上洛する代償として秀吉の生母・大政所が人質として家康に差し出された際、大政所の世話役を任された重次は、大政所を粗略に扱い、大政所のいる建物の周辺に薪を大量に積みあげ、もし上方で家康の身に変事があればただちに大政所を焼き殺す姿勢を見せた。これは、家康の無事の帰国を祈って脅しをかけたと言われているが、後にこのことを大政所から聞かされた秀吉はさすがに不快感を表し、家康に対して「重次のような無礼者は家臣の座から放逐せよ」と命令した[3]。
小田原征伐からの帰阪の途上、秀吉が岡崎城に立ち寄った際、城将の重次は迎えに現れず、秀吉は三度も使者を遣わして催促したが重次が応じなかった[4]。

一筆啓上
日本一短い手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の一文は、重次が天正3年(1575年)の長篠の戦いの陣中から妻にあてて書いた手紙である。この「お仙」は当時幼子であった嫡子・仙千代(成重・後の丸岡藩主)のことである。なお、手紙の原文は「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」である[1][5]。なお、越前丸岡城は福井地震で倒壊したが、その古材で復興し、現存する天守閣は日本最古とされ、その城内には「一筆啓上碑」があり、福井県丸岡町では平成5年(1993年)から「日本で1番短い手紙」を募集している[1]。手紙の内容自体は味も素っ気も無いが、無駄を省いて要件だけを明瞭に伝えているため、武士の文章の手本とされている[1]。
また重次は頑固で他人に厳しい人物と見られがちだが、この手紙は唯一の息子である仙千代を心配し、自らが留守中に家中を取り仕切る妻に「火事に気を付けるように、使用人への徹底を改めてするように、そして5人の子の内、男子は仙千代だけだから病気に気を付け、武士にとって戦場で命を預ける馬の世話を怠りなくせよ」と妻子を気遣う優しさが見え隠れしている[6]。


以上、Wikiより。



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