堀田 正吉(ほった まさよし、元亀2年(1571年) - 寛永6年2月17日(1629年3月11日))は、江戸時代初期の旗本。堀田正秀の五男。母は浅野長一の娘。通称は、勘左衛門。別名、正利。妻は稲葉正成の娘・まん。子に堀田正盛、脇坂安利、堀田正茂、大草高正妻、勝境院(喜多見重勝妻)、水谷勝俊室。
当初、織田信長、そして浅野長政に仕え、文禄元年(1592年)より、小早川隆景、次代の養子小早川秀秋に仕えた。関ヶ原の戦いののち、慶長7年(1602年)に秀秋が没すると、慶長10年(1605年)に江戸幕府に出仕し500石を給される。寛永元年(1624年)、福島正則が没するとその検視役として赴く。寛永6年(1629年)に59歳で没する。身分の低い自分が、子の正盛の出世の足手まといになると考えたことによる自害とされる。墓所は、東京都台東区日輪寺。
妻のまんは、稲葉正成の妻の春日局の義娘にあたり、子の正盛は早くより将軍徳川家光に近侍し寵愛を受け、幕府の要職に抜擢、大名となり子孫は繁栄した。
以上、Wikiより。
