細川晴元 (ほそかわ はるもと) | げむおた街道をゆく

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細川 晴元(ほそかわ はるもと)は、室町時代末期(戦国時代)の武将・戦国大名。細川氏本家京兆家当主。父は細川澄元、母は清泰院。正室は三条公頼の長女であり、その縁から武田信玄・本願寺法主顕如の義兄に当たる人物でもある。子に信良(昭元)、晴之など。
当時畿内で内乱状態にあった細川氏を纏め、管領に就任したが家臣の三好長慶の反乱で没落、勢威を取り戻せないまま没した。実権を持っていた管領としては最後の管領である[1]。
「晴元」という名は第12代将軍足利義晴の偏諱を受けたものであるが、義晴と敵対関係であった時期には「細川六郎」という通称を用いた。この項目での呼称は晴元で統一する。



ー 生涯 -

高国との決戦
永正11年(1514年)に細川澄元の子として誕生、6年後の永正17年6月10日(1520年6月24日)、同族の細川高国との争いに敗れ阿波へ退去していた父の死去により、晴元は7歳で家督を継承した。ただ、細川京兆家の家督を巡る高国との争いを続けていた父は、高国に幾度も煮え湯を飲まされ続けたまま死去し、晴元の継承時も劣勢を覆せていない苦しい状況が続いていた。一方、仇敵の高国は将軍足利義稙を追放、代わって足利義晴を12代将軍に擁立して挿げ替えを断行するなど事実上の天下人として君臨しており、反撃の機会は遠退いていた。
だが大永6年7月13日(1526年8月20日)、従弟の細川尹賢からの讒言を信じた高国が配下の香西元盛を討った為に元盛の実兄(波多野稙通、柳本賢治)達に背かれ、派閥の内部分裂を自ら招いた。そんな収拾のつかない敵方の窮状に突け込むべく、13歳の晴元は三好元長に擁されて、同年10月に高国打倒の兵を挙げた。同年内には畿内まで進出し、高国に背いた波多野軍と合流した。
高国と晴元の争いは、細川氏の家督を奪い合う私闘であるにも係わらず、高国は現職の管領である事を利用して将軍義晴を擁立していたために、名目上の官軍を称する事が出来た。それでは晴元側は賊軍の扱いを受けてしまい、保身に奔る味方に離反される恐れを孕んでいた為、晴元側も義晴の弟足利義維を擁立する事で備えている。そもそも大永3年(1523年)に足利義稙が阿波撫養に下向してきた時に細川讃州家の助力を得ようとしたが、当時の晴元は10歳の少年であったため助力することかなわず、失意のうちに義稙は没した。その後、当時の阿波守護で晴元の従弟細川持隆は阿波の細川館で、将軍継嗣としての義維と、細川宗家継嗣としての晴元を一緒に養育していた。
翌7年2月12日(1527年3月24日)、高国との決戦に勝利(桂川原の戦い)。義晴を擁したままの高国を近江へ追い落とすと、和泉堺を本拠とした晴元は、都落ちにより実態を失った高国政権に替わるべく、義維を将軍に戴く「堺公方府」という擬似幕府を創設した[2]。
ここまで元長の功績は抜群だったが、柳本賢治と傍流の三好政長らと対立、晴元も元長が高国の和睦を図ったことで不満を抱き賢治らの讒言を受け入れていた為、享禄2年(1529年)に憤慨した元長の阿波下向という事態を招き堺公方府の軍事力を低下させてしまった。高国も備前守護代の浦上村宗と結託して再起を図り挙兵、迎撃に向かった賢治は享禄3年(1530年)に高国の刺客に暗殺され、勢いに乗った高国・村宗らが摂津へ侵攻して堺公方府を窮地に立たせた。
翌享禄4年(1531年)になると高国に摂津の大半を制圧された上、京都も高国派の内藤彦七に奪回され堺公方府への攻撃危機に晒されるものの、同年2月に元長と和睦、3月に元長に高国軍の進撃を阻ませて膠着化に持ち込む(中嶋の戦い)と、6月4日(7月17日)には来援の赤松政祐(晴政)による高国への支援を装った騙し討ちが決め手となって、高国・村宗軍を壊滅させた(天王寺の戦い)。
戦後、高国には逃亡されるも翌5日には潜伏中の摂津尼崎で捕縛し、8日には尼崎の広徳寺で自害させ、亡父の仇を討った[3]。

権力基盤の確立に向けて
それまでの権力者だった高国を滅ぼした晴元だったが、堺公方府としての政権奪取というこれまでの方針を転換。現将軍義晴と和睦し、その管領に就こうとした為元長と対立してしまう。細川京兆家の家督と管領の座さえ手に入れば、別に義晴が将軍のままでも良かったという事である。共通の敵・高国を滅ぼして僅か2ヶ月で内部対立が表面化した堺公方府であったが、高国討伐の功労者であった元長に対し、それを邪魔者と見る畿内の国衆が晴元の下に結集した。
翌享禄5年(1532年)、晴元が肩入れする木沢長政を攻撃する元長を排除すべく、茨木長隆ら摂津国衆が策謀を凝らして本願寺第10世法主証如に一向一揆の蜂起依頼を提言。証如の快諾で蜂起した一揆軍によって自らの手を汚す事なく元長を堺で敗死させただけでなく、不和になった足利義維の阿波放逐にも成功した(飯盛城の戦い)。長政の主君で、元長の支援を受けていた畠山義堯も巻き込まれ、一向一揆に討たれている。
内部の反対派を排除し、将軍義晴と和睦できた晴元は、蜂起したまま乱行を重ねた一向一揆軍の鎮圧に神経を費やした。一向宗の対立宗派であった法華宗とも協力して法華一揆を誘発させ、他にも領内で一向宗の活動に悩まされていた近江の六角定頼とも協力して山科本願寺を攻めた(山科本願寺の戦い)。山科本願寺焼亡後、石山本願寺に移転した一向一揆と戦い、天文2年(1533年)に一向一揆の反撃に遭い堺から淡路へ亡命したが、摂津池田城へ復帰して体勢を立て直し、天文4年(1535年)に和睦した(享禄・天文の乱)。天文3年(1534年)に木沢長政の仲介で元長の嫡男三好長慶とも和睦して家臣に組み入れた。
天文5年(1536年)、京都で勢力を伸ばした法華衆に対し、比叡山延暦寺・六角定頼と連合して壊滅させた(天文法華の乱)。同年に高国の残党を率いて敵対していた高国の弟晴国も討ち取り畿内を安定させ、天文6年(1537年)に右京大夫に任官され、管領として幕政を支配した。なお、この年の4月19日には六角定頼の猶子となっていた三条公頼の娘が嫁いでいる[4]。だが、一方で足利義晴は本来は敵方であった晴元に対抗するために権力機構を整備したこと、六角定頼の幕府内での発言力が高まったこと、両細川の乱以前からの細川京兆家譜代の家臣(内衆)の多くが細川高国配下として運命を共にしたことによる京兆家の政治的ノウハウの喪失などによって幕政における細川京兆家の発言力が大きく低下したとする指摘もある[5]。

細川政権時代
天文8年(1539年)、上洛した長慶が同族の三好政長と河内十七箇所を巡って争い、政長に肩入れして長慶と対立したが、義晴と定頼の仲介で長慶と和睦した。この時は小競り合いに終わったが、天文10年(1541年)には増長した木沢長政が造反、政長の排除を訴えられた時も拒絶、京都郊外の岩倉へ逃れ、翌天文11年(1542年)に摂津芥川山城へ移り反撃、長慶・政長と河内の遊佐長教による活躍で長政を討ち取っている(太平寺の戦い)。
しかし反乱はなおも続き、天文12年(1543年)、亡き高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて和泉で挙兵。この反乱は同年の内に治まったが、天文14年(1545年)には山城で高国派の上野元治・元全父子と丹波の内藤国貞らが挙兵、長慶・政長ら諸軍勢を率いて反乱を鎮圧した。天文15年(1546年)8月に氏綱が畠山政国や遊佐長教の援助で再挙兵、長慶の動きを封じて摂津の殆どを奪い取った。氏綱には政国・長教らが手を結んだだけでなく、9月に上野元治も再挙兵して京都へ入ったため晴元は丹波へ逃亡する。
この年の12月に将軍・義晴も滞在先の近江国坂本で嫡男・義輝を元服させた上で将軍職を譲るが、この際に「雖然当時因無管領」によって六角定頼が管領代に任じられ、本来は管領が行うべき加冠役(烏帽子親)を務めた(『光源院殿御元服記』)。これは、従来は管領である晴元が出陣中であったため定頼が代行したと解されていたが、近年では文字通り管領が空席であった=晴元は管領ではなかったと解する説が出されている。この説によれば、当時の管領の職務は儀礼的分野に留まり、もし晴元が坂本に駆けつけられる状態であればこの元服の儀に先立って管領に任命された筈であるが、実際にはそれが不可能であったために近江の守護である定頼が管領代に任じられ、晴元は最後まで管領に任じられなかったとされる。いずれにしても、慣例に反して細川氏よりも家格が下がる六角氏の当主を将軍の烏帽子親にする行為は晴元の面子を踏みにじるものであり[6]、やがて義晴父子も氏綱を支持に転じて、晴元と敵対する。
これに対して晴元は11月に長慶の居城である摂津越水城から北の神呪寺へ移り、越水城で待機していた長慶と協議して翌天文16年(1547年)に反撃、摂津の氏綱方を打ち破り摂津を平定、7月21日に長慶が氏綱・長教らに舎利寺の戦いで勝利、義晴とも閏7月に定頼の協力で和睦して氏綱の反乱をようやく鎮圧した[7]。
だが天文17年(1548年)5月6日、かつて氏綱に寝返った摂津国人池田信正を切腹させたことにより長慶と他の摂津国人衆の離反を招き、8月に長慶から出された三好一族の和を乱す政長討伐の認可要請を拒否すると、10月に長慶が氏綱側に離反して挙兵、長慶軍に攻め立てられ摂津榎並城に籠城していた政長の子・政勝を見捨てては畿内の国衆から見限られる恐れがある為、晴元は摂津江口において長慶らと戦う事となった。しかし、正面からの主力決戦を回避し、あくまでも六角軍の到来を待ってから決戦に臨もうとした為、機先を制せられた晴元の主力は戦わないまま敗北する(江口の戦い)。この戦いで政長・高畠長直ら多くの配下を失った晴元は追撃を恐れて、将軍義輝や義晴と共に近江坂本まで逃れた[8]。

没落、晩年
晴元や義輝ら幕府首脳陣が不在となった京都には長慶と氏綱が上洛、長慶が幕府と京都の実権を握った。近江へ逃亡した晴元は天文19年(1550年)に義晴が死去してからは義輝を擁立し、香西元成や三好政勝など晴元党の残党を率いて東山の中尾城と丹波を拠点に京都奪回を試みたが成功せず中尾城を破棄(中尾城の戦い)、天文20年(1551年)に丹波衆を率いた元成・政勝が三好軍に敗れ(相国寺の戦い)、天文21年(1552年)1月に長慶と義輝が和睦して義輝が上洛、氏綱が細川氏当主となり嫡男の聡明丸(後の昭元)が長慶の人質になっても和睦を認めず出家、若狭守護の武田信豊を頼り若狭へ下向する。信豊は家臣の逸見と粟屋を細川氏の領国である丹波へ派兵する。
それからは丹波で度々南下して三好軍を脅かし、翌天文22年(1553年)3月に義輝と長慶が決別、7月に義輝から赦免されると再度義輝と共に長慶と交戦した。しかし、8月に義輝方の霊山城が三好軍に落とされると義輝と共に近江朽木へ逃亡した。丹波では元成・政勝らが波多野晴通と手を結び長慶派の内藤国貞を討ち取ったが、国貞の養子で長慶の部将松永長頼に反撃されて丹波の殆どを平定され、弘治3年(1557年)に晴通が長頼と和睦して丹波は三好領国となった。播磨でも元成が明石氏と結んだが、弘治元年(1555年)に明石氏が三好軍に攻撃され降伏、勢力拡大した長慶の前に手も足も出せなくなった[9]。
永禄元年(1558年)に上洛を図り将軍山城で三好軍と交戦するも(北白川の戦い)、六角義賢の仲介で義輝と長慶が再び和睦を結ぶと坂本に止まる。
永禄4年(1561年)隠居の晴元は次男の細川晴之を細川家の当主に見立て、六角・畠山軍とともに近江に反三好の兵を挙げさせる。三好軍に敗退し晴之は戦死、長慶と和睦するも、摂津の普門寺城に幽閉された。

永禄6年(1563年)3月1日に普門寺で死去した[10]。享年50。

晴元の死後は昭元が京兆家の家督を相続したが、管領に任命されず、かつての威勢を取り戻せず没落していった。氏綱は管領に就任したが長慶の傀儡のまま死去、以降誰も管領に任命されなかった。後に昭元は織田信長に仕え、子孫は縁者の秋田氏を頼り、三春藩の家老として遇された。


以上、Wikiより。



細川晴元