北条氏政 (ほうじょう うじまさ) | げむおた街道をゆく

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北条 氏政(ほうじょう うじまさ)は、戦国時代の関東の大名・武将。後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘瑞渓院。子に氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。
氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に務め最大版図を築くが、豊臣秀吉が台頭すると小田原征伐を招き、数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹し、戦国大名北条氏による関東支配を終結させる最期となった。



ー 生涯 -

家督相続
天文7年(1538年)、第3代当主・北条氏康の次男として生まれる。兄・新九郎が夭折したために世子となり、北条新九郎氏政と名乗る。天文23年(1554年)に父が武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟を成立させると、信玄の娘・黄梅院を正室に迎えた。夫婦仲は極めて良好であった。
永禄2年(1559年)に父が隠居して家督を譲られ、北条家の第4代当主となるが、氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続いた。

氏康存命中
家督相続後、氏政が最初に行なった仕事が北条家所領役帳の作成(代替わりの検地)とされている。民意を重視し、検地や徳政を行うための内政事情によって代替わりすることが北条氏の常套であった。
永禄4年(1561年)、上杉謙信が関東・南陸奥の諸大名を糾合した大軍で小田原城を包囲する(小田原城の戦い)。北条氏は窮地に陥ったが、盟友・武田信玄の支援もあり、氏政は父主導のもとで籠城戦で対抗し、上杉軍を撃退する。越後に撤退した謙信が第4次川中島の戦いで信玄と戦って甚大な被害を受けると、信玄と呼応して北関東方面に侵攻。一進一退の攻防を繰り返しつつ、上杉方に奪われた領土を徐々に奪い返していく。
永禄7年(1564年)の第2次国府台合戦では、緒戦こそ里見義弘の前に苦戦したが、氏政は北条綱成と共に里見軍の背後を攻撃して勝利を得た。これによって上総に勢力を拡大した上、上総土気城主酒井胤治らが一時的ながら氏政に帰順している。同年には武蔵岩槻城主太田資正の長男氏資を調略して資正を武蔵から追い、武蔵の大半の支配権を確立した。これに対し謙信は武蔵羽生城などを拠点として対抗する。
永禄9年(1566年)、謙信を盟主としていた上野の由良成繁が氏政に帰順した。これに連動して佐野昌綱・北条高広らも氏政に帰順し、上野にも勢力を拡大する。更に氏政の従兄弟で下総の古河公方足利義氏の重臣簗田晴助も一時的に氏政に和したため、謙信と同盟している常陸の佐竹義重との直接対立が顕在化する。佐竹氏に協調する里見氏、佐竹氏の客将となった太田資正などと臨戦状況となる。
永禄10年(1567年)、里見義堯・義弘父子が上総奪還を目指して侵攻する。氏政はこれを撃退しようと上総東部の低山である三舟山(君津市)に着陣し、水軍もこの砦と向かい合う佐貫城を窺った。しかし、旧里見配下の国人が侵攻軍に内通、三崎水軍の侵攻も遅滞した状況で、義堯に敗退。上総の支配権を失った(三船山の戦い)。
この頃、駿河の今川氏は永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで当主・義元が討死して以降領国の動揺を招いており、武田・今川間の関係も悪化していた。永禄11年(1568年)12月に甲駿関係は手切となり、信玄による駿河今川領国への侵攻が開始され(駿河侵攻)、義元の嫡男であり氏政の従兄弟かつ義弟でもある今川氏真(氏政の妹早川殿の夫)は没落した。信玄は北条氏へも今川領国の割譲をもちかけていたが北条氏は駿相同盟を優先して氏真方に加担し、甲相同盟も破綻する。氏政は出陣し薩埵峠まで進出して武田軍に対抗し、一旦は信玄の勢力を追放して駿河の一部を勢力圏に収めた。
更に掛川城に籠城していた氏真を救出するため、武田方から離反した三河の徳川家康と和議を結び、氏政は氏真を保護した。そして自分の次男である氏直を氏真の養子として今川の家督を継承し、駿河領有の正当化を図った。また、信玄に対抗するために宿敵であった上杉謙信に弟の三郎(後の上杉景虎)を謙信の養子(人質)として差し出し、上野の支配領域を割譲して同盟を結んでいる(越相同盟)。この信玄との関係悪化によって愛妻・黄梅院と離縁するという悲劇を味わっている。
永禄12年(1569年)9月、碓氷峠から侵攻した信玄は小仏峠の別働隊を併せて小田原城を攻撃するが、氏政は父と共に籠城して武田軍を撃退している。この後、北条氏は甲斐へ引き上げる武田軍の挟み撃ちを試みる(三増峠の戦い)。父の替わりに本隊を率いた氏政は、武田軍を追って弟の氏照・氏邦等が布陣した津久井領三増峠(現愛川町)より数里南方の荻野(現厚木市)まで進軍。この事態に対し武田軍は、進軍を早めるために小荷駄を捨ててまで迅速に帰国を目指していた。それに比べて追撃が遅延した氏政[1]の到着を待つことなく、三増峠の氏照・氏邦隊は攻撃を開始したため挟撃にならなかった他、津久井城の内藤氏指揮下の予備戦力の津久井衆が武田側の加藤丹後によって押さえられて出陣できなかった。武田軍も北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により殿軍の浅利信種や浦野重秀が討ち死などの損害をだしたものの、終わってみれば武田軍に敗北し、甲斐への帰国を許してしまうこととなった。
その後も信玄が伊豆・駿河方面に進出するとこれに対抗するが、蒲原城、深沢城等の駿河諸城が陥落し、後見役であった父が病気がちになり戦線を後退、元亀元年(1570年)には北条方の駿河支配地域は興国寺城及び駿東南部一帯だけとなり、事実上駿河は信玄によって併合された。
元亀2年(1571年)10月に父が病没すると、氏政は12月に信玄との同盟を復活(甲相同盟)、同時に謙信との越相同盟を破棄した。この同盟は条件の調整不足等より(上杉家文書・御書集・展観入札目録)、結果的に対武田対策として十分な成果を得られていない旨の不満(上杉家文書、氏政から由良正繁宛書状・集古文書)があった。元々両氏の戦略観の隔たりがあった上、謙信も北陸地方の越中の平定の方に力を注くようになっていた。
元亀3年(1572年)の信玄の三河・織田領国への侵攻(西上作戦)の際には、諸足軽衆の大藤秀信(初代政信)や伊豆衆筆頭で怪力の持ち主とされる清水太郎左衛門など2,000余を援軍として武田軍に参加させ、三方ヶ原の戦いでは織田・徳川連合軍に勝利している。ただし、この戦いで大藤秀信が戦死している。

上杉・武田との戦い
甲相同盟復活後、氏政と謙信の戦いが再び始まり、天正2年(1574年)に謙信が上野に進出すると氏政も出陣し、利根川で対陣した。しかし謙信の関心は既に越中に向けられており、決戦には至らなかった。閏11月には父が「一国に等しい城」とまで称した簗田晴助の関宿城を攻め落とし、翌天正3年(1575年)には小山秀綱の下野祇園城を攻め落とした。更に下総の結城晴朝が恭順するなど氏政の勢力は拡大してゆき、上杉派の勢力を関東からほぼ一掃した。天正5年(1577年)には上総に侵攻し、宿敵・里見義弘との和睦を実現した(房相一和)。なおこの戦いにおいて嫡男・氏直が初陣している。
天正6年(1578年)に謙信が死去すると、その後継者をめぐって謙信の甥・上杉景勝と氏政の弟で謙信の養子・上杉景虎の間で後継者争いである御館の乱がおこった。氏政はこの時下野において佐竹氏・宇都宮氏と対陣中であったため、5月に景虎援助のために氏照、氏邦らを越後に派遣した。8月下旬には氏政自身も景虎援助のため、上野の厩橋城まで出陣するが、すぐに小田原へ引き返している。
また、これと同時に同盟者で義弟(妹桂林院殿の夫)の武田勝頼にも援軍を依頼した。勝頼は景虎支援のため北信濃に出兵するが、景勝は北信の上杉領や上野沼田の割譲を条件に勝頼と和睦し(甲越同盟)、勝頼は景虎・景勝間を調停し和睦の成立に至るが、同年8月の勝頼撤兵中に和睦は破綻する。氏照・氏邦は秋に本格的に越後入りを図るも、坂戸城での頑強な抵抗にあって冬・積雪の時間切れとなり、無念の撤退を強いられる。翌天正7年(1579年)に景勝が乱を制する形で景虎は自害した(その後、勝頼の妹が景勝に嫁いだ)。
景虎の敗死により氏政は甲相同盟を破棄し、三河の徳川家康と同盟を結び駿河の武田領国を挟撃する。天正8年(1580年)に勝頼を攻めて重須の合戦が起きたが、勝負はつかなかった。上野では勝頼の攻勢が続き、上野下野国衆も武田方に転じたため、劣勢に陥っている。
このため、同年3月10日には石山本願寺を降伏させて勢いづく織田信長に臣従を申し出ている[2]。8月19日に氏直に家督を譲って隠居するが(『戦国遺文』後北条氏編 - 2197号)、これは在陣中の異例のもので、父に倣い北条家の政治・軍事の実権は掌握した。

勢力拡大
天正10年(1582年)2月、織田信長の嫡子の織田信忠を総大将、織田四天王の1人である滝川一益を軍監とした軍勢が甲州征伐に乗り出す。駿豆国境間の情報が途絶していたため当初情報の少なかった氏政は氏邦に上野方面から情報収集させた。その後、伊勢からの船による情報により、織田の武田領国侵攻を確認すると、これに呼応し駿河の武田領に侵攻した。3月11日に勝頼は天目山の戦いで正室・桂林院殿と共に自刃し、甲斐武田氏は滅亡した。
信長は滝川一益を上野厩橋城に派遣して関東管領とし、上野西部と信濃の一部を与え、関東の統治を目論んだ。既に北条氏は氏直に織田家から姫を迎えて婚姻することを条件にして、織田の分国として関東一括統治を願い出ていたが、これについて信長から明確な回答がなかったため、氏政は三島大社に氏直の関東支配と織田家との婚姻祈願の願文を捧げている。また一益の仲介により、下野祇園城を元城主の小山秀綱に返還する等、織田氏の関東支配に協力している。氏政はこの時点での信長の勢威を恐れており、織田氏との友好関係は保たれていた。関東の北条領は一益の文書では南方と呼ばれ、重視されている。
信長公記によれば、氏政は、3月26日、4月2日、4月3日と立て続けに、端山(たんざん)という人物を使者に、信長に祝儀のための贈り物をしたと伝わる[3]。氏政は長年争った武田家を迅速に殲滅させた信長の軍事力の強大さを認識し、織田家と友好関係を保つことを切望していた[4]。氏政は五百羽の雉を信長へ奉げるために京都へ送っている[5]。また弟の氏邦が一益の元へ出仕している[6]。4月に入ると、佐竹義重、里見義頼、他関東の諸勢力、蘆名盛隆、小野寺景道、伊達輝宗ら、奥州の諸大名も、信長の代理である滝川一益に使者を送り、貢物をして、信長政権との接近を図っている[7]。
しかし、信長は北条氏に好意的な対応を見せず、むしろ刺激するようなことをしていた[8]。また、信長との縁談も円滑には進まなかったのではないかという見解もある[9]。
だが6月2日、京都本能寺において信長が明智光秀の謀反により死去(本能寺の変)した。信長の死を知った氏政は当初一益に引き続き協調関係を継続する旨を通知しているが、氏政と一益の間には表面的には友好関係を維持しながらも互いに不信感が増幅しており[10]、氏政が深谷に軍勢を差し向け、一益もこれに呼応して軍勢を差し向ける。数日後には明白に対立関係となり、両者の間で合戦が勃発する。北条氏は、上野の半分を掌中に収めていたが、信長の進撃によってそれを信長の代行者である滝川一益に譲らざるを得ない状況になっており[11]、上野を回復しようという意図は強かったと考えられる[12]。
氏直と氏邦に上野奪取を命じ、5万6千と称する大軍を上野に侵攻させ滝川軍と対峙した。北条軍は滝川軍の3倍の兵力であり、緒戦こそ先鋒が打撃を受けたものの、数日後の決戦には大勝し一益を敗走させた(神流川の戦い)。この後、北条軍は敗走する一益を追って、碓氷峠から信濃に進出、真田昌幸・木曾義昌・諏訪頼忠などを取り込み、徳川家康傘下として旧武田兵を集めて決起した依田信蕃等を討って小諸城に駐屯し、信濃東部から中部にかけて占領下に置いた。一方、一益の敗走により、信濃や上野と同じく空白地帯と化した甲斐に侵攻した家康は、信蕃を通して真田昌幸を調略し、徳川方の小笠原貞慶への肩入れなどにより北条軍と対立した(天正壬午の乱)。この一連の騒乱によって織田家は甲斐・信濃・上野を一挙に失うことになり、織田家の重臣だった一益は失脚した。
その後、甲斐若神子において氏直と家康は対陣したが(若神子の戦い)、信濃では昌幸が離反し、甲斐においても北条氏忠(氏政の弟)・北条氏勝(氏政の甥)が、黒駒において徳川方の鳥居元忠らに敗北し、甲斐の北条領は郡内地方の領有に留まる等、対陣は不利となった。このため氏直と家康の娘・督姫を結婚させることで和睦した。領土問題は甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領とすることで合意したが、信濃佐久・小県両郡と甲斐郡内地方の放棄は不利な講和条件だった。しかも家康についた真田昌幸が、後に上野の沼田城を北条に明け渡す事を拒んで上杉氏に寝返り、上田・沼田城にて徳川・北条と抗戦することとなり、これらの懸案が後の沼田問題さらに名胡桃事件の伏線となる。
同年、上野を巡り氏政と争っていた上杉景勝が、柴田勝家へ対抗するべく羽柴秀吉と同盟する。当時の有力戦国大名の内、最も早く秀吉に靡いたのが景勝であった[13]。この同盟の際、秀吉は景勝に、「景勝が氏政に対し『存分』があった場合、自分も北条と絶交する」という誓いを立てている[14]。北条と上杉は先代謙信の代から一時期同盟を結びながらも敵対関係であることが多く、景勝は北条から養子として送られてきた上杉景虎と御館の乱で争った。さらに、景勝はかつて謙信が就任したこともある関東管領を強く意識しており、北条家には相応の敵意を燃やしており、討伐の意思は強かった[15]。さらに、景勝は同じく反北条の先鋒である佐竹義重や北関東の国人達とも結託しており、彼らもまた秀吉に接近して、徳川-北条ラインに対抗することとなった[16]。
上杉、佐竹という、北条と極めて険悪な関係の勢力と早くから手を結んでいた秀吉は、この時点で「反北条」の姿勢であったと考えられている[17]。これが小田原征伐・北条滅亡の遠因ともなる。
天正11年(1583年)に古河公方足利義氏が死去すると、官途補任により権力を掌握し、これにより関東の身分秩序の頂点に立った。また武蔵の江戸地域、岩付領の支配を掌握し、利根川水系と常陸川水系の支配を確保、これによって流通・交通体系を支配したため、関東の反北条連合は従属か徹底抗戦の二者択一を迫られるまでに至った。この時期に同地域の支配を確固たるものにするために江戸城を隠居城として政務を執る構想があったとも言われているが、実際には氏政は以後も小田原に居住しており、具体化には至らなかったとされている。
天正13年(1585年)、佐竹義重・宇都宮国綱らが那須資晴・壬生義雄らを攻めると、氏政は那須氏らと手を結んで本格的に下野侵攻を開始し、下野の南半分を支配下に置いた。また常陸南部の江戸崎城の土岐氏及び牛久城の岡見氏を支援し、常陸南部にも勢力を及ぼした。
こうして、北条氏の領国は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部に及ぶ240万石(北条氏の所領跡地に入った家康の慶長3年検地・大名知行高に基づく推測)に達し、最大版図を築き上げた。

小田原征伐から最期へ
しかし、明智光秀を討ち、信長の天下一統事業を継承した豊臣秀吉との対立が待っていた。
天正16年(1588年)、秀吉から氏政・氏直親子の聚楽第行幸への列席を求められたが、氏政はこれを拒否する。京では北条討伐の風聞が立ち、「京勢催動」として北条氏も臨戦体制を取るに至ったが、徳川家康の起請文により以下のような説得を受けた。
家康が北条親子の事を讒言せず、北条氏の領国を一切望まない
今月中に兄弟衆を派遣する
豊臣家への出仕を拒否する場合督姫を離別させる
8月に氏政の弟・北条氏規が名代として上洛したことで、北条-豊臣間の関係は一時的にではあるが安定する。武州文書によると、この頃、氏政は実質的にも隠居をすると宣言している(氏政は秀吉への全面従属には反対であったため、親徳川の氏直をたてたとされるが、後に氏政自身が上洛することを家臣・国衆に通知しており、氏政が主戦派であったとの見解については疑問がある)。
天正17年(1589年)2月、評定衆である板部岡江雪斎が上洛し、沼田問題の解決を秀吉に要請した。秀吉は沼田領の3分の2を北条側に還付する沼田裁定をおこない、6月には12月氏政上洛の一札を受け取り、沼田領は7月に北条方に引き渡された。しかし上洛について、氏政は新たに天正18年(1590年)の春夏頃の上洛を申し入れたが、それを秀吉が拒否したことにより、再び関係が悪化し始める。こうした状況の中の10月、氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が起きた。秀吉は家康、景勝らを上洛させ、諸大名に対して天正18年(1590年)春の北条氏追討の出陣用意を促した。また、秀吉は津田盛月・富田一白を上使として北条氏に派遣し、名胡桃事件の首謀者を処罰して即刻上洛するよう要求している。
これに対して氏直は、氏政抑留か国替えの惑説があるため上洛できないことと、家康が臣従した際に朝日姫と婚姻し大政所を人質とした上で上洛する厚遇を受けたことに対して、名胡桃事件における北条氏に対する態度との差を挙げ、抑留・国替がなく心安く上洛を遂げられるよう要請した。また名胡桃城奪取事件について、氏政や氏直の命令があったわけではなく、真田方の名胡桃城主が北条方に寝返ったことによるもので、既に名胡桃城は真田方に返還したと弁明している。
上洛の頓挫については、もし氏政が上洛して臣従した場合、秀吉は当然のこと、徳川家康や宿敵上杉景勝よりも風下に置かれることとなり、それに氏政が屈辱感を感じていたのではないかという見解がある[18]。『駿河土産』によれば、北条側は、同盟を結んでいる徳川より自分達の方が格は上だと認識している節があった[19]。また、北条氏への敵対意識が強い、上杉景勝や佐竹義重、北関東の諸豪族が早くから秀吉と接近していたため、秀吉の方も北条に対して非協調的、冷淡であったと指摘される[20]。
これが真に猪俣の独断であるならば、氏直・氏政の監督不行き届きが招いた結果であり、穏健派の氏規と中間派の氏直、主戦派の氏政・氏照・氏邦の対立が表面化したと言える。しかし現存している各種書状において、沼田城受領後の氏政は自らの上洛時期が当初の12月から翌春夏にずれたものの、上洛に積極的であり、氏政・氏直が再三にわたり名胡桃城を北条が奪取したわけでないと述べていることを考慮すると、名胡桃城奪取と言われる真の状況は今をもっても不明といわざるを得ない。
未だに上洛を引き延ばす氏政の姿勢に業を煮やした秀吉は、氏政の上洛・出仕の拒否を豊臣家への従属拒否であるとみなし、12月23日、諸大名に正式に追討の陣触れを発した。これに先立って駿豆国境間が手切れに及んだことを知った氏政・氏直は、17日には北条領国内の家臣・他国衆に対して小田原への1月15日参陣を命じて迎撃の態勢を整えるに至った。そして天正18年3月から、各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎え撃った。当初は碓井峠を越えてきた真田・依田に対して勝利し、駿豆国境方面でも布陣する豊臣方諸将に威力偵察するなど戦意は旺盛であったが、秀吉の沼津着陣後には、緒戦で山中城が落城。4月から約3ヶ月に渡って小田原城に籠城する。その後、領国内の下田城、松井田城、玉縄城、岩槻城、鉢形城、八王子城、津久井城等の諸城が次々と落城。22万を数える豊臣軍の前には衆寡敵せず、(1)武蔵・相模・伊豆のみを領地とする、(2)氏直に上洛をさせるという条件で、北条氏は降伏した。
俗にこの際、一月以上に渡り、北条家家臣団の抗戦派と降伏派によって繰り広げられた議論が小田原評定の語源になったと言われているが、本来は北条家臣団が定期的(概ねの期間において毎月)に行っていた評定を呼ぶものである。
しかし秀吉は、和睦の条件を破り、氏政らに切腹を命じ、氏直らを高野山に追放すると決めた。7月5日、氏直が自分の命と引き換えに全ての将兵の助命を乞い、降伏した。氏直の舅である家康も氏政の助命を乞うが、北条氏の討伐を招いた責任者として秀吉は氏政・氏照及び宿老の松田憲秀・大道寺政繁に切腹を命じた。井伊直政の情報では一時は助命されるという見通しもあったが、7月11日に氏政と氏照が切腹した。享年53。静岡県富士市の源立寺に首塚がある。墓所は神奈川県小田原市内と同箱根町に存在する。
辞世の句は、
「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」
「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」。
ここに戦国大名としての小田原北条氏は滅んだ。
ただし、家康の親族(婿)であった氏直は助命され、生活費としての扶持が与えられていた。更に翌天正19年(1591年)8月には秀吉により1万石が与えられ、大名としての名跡復活の動きもあったとされるが、同年11月に死亡したため、後北条氏の系統は氏規が継承し、氏直の領地1万石の一部も継承、江戸時代に氏規の子北条氏盛が狭山藩主となり、明治維新まで存続した。その他、家康が支配する世の中になった後、旧北条氏の縁故となる家がいくつか取り立てられている。



ー 人物 -

後世成立の『北条記』では「四世の氏政は愚か者で、老臣の松田入道の悪いたくらみにまどわされ、国政を乱したけれども、まだ父氏康君の武徳のおかげがあって、どうやら無事であった」と評されている。同資料で、北条5代の当主の中で「君」も付けられていない当主は、氏政だけである。これら後世の史料の評価や、後述の「二度汁」のエピソードなどは、北条家が滅亡した当時の実質的な支配者が氏政であったことから、「家を滅ぼした当主」という、結果論からマイナスの評価をされていると指摘されている[21]。秀吉への臣従を拒絶し、その結果滅ぼされたという結果から、「情勢に疎い」「井の中の蛙」「己を過信した」という烙印を後世で押されてしまった[22]。現代では、「結果論を根拠に氏政を暗愚扱いするのは気の毒だ」という評価も産まれている[23]。「情勢に疎い井の中の蛙」という評価に対しては、織田信長が武田を滅ぼし関東まで勢力を拡大してきた時の、氏政らの信長への対応を考慮すれば、的外れな批評であると反論されている[24]。
個人的には家族思いの人物であったらしく、有能な弟達と常に良好な関係を維持していたのみならず、愛妻家としても知られている。正妻の黄梅院とは武田の駿河侵攻を機に離婚させられているが、氏政本人は最後まで離婚を渋っており、氏康の死の直後に武田と和睦した際には真っ先に妻の遺骨を貰い受け手厚く葬っている[25]。 北条氏滅亡時の実権者とはいえ、父である氏康の時代以上に勢力を拡大したその治世や、良好な関係の兄弟と協力し合い、良き臣下に支えられて、合戦でも武功を挙げている点など、決して無能な武将というわけではない[26]。
秀吉に徹底抗戦したことについては、これまでは氏政が無能であり、時流、及び秀吉との圧倒的な国力の差を把握できていないことが原因という、氏政の暗愚な資質に原因を求める評価が主流であった[27]。一方で、東国の武家は源頼朝以来中央政権から自立するような思考が強く、そうした、「東国武家社会の伝統性」を、徹底抗戦の根拠とする見解もある[28]。また、最初から秀吉は北条氏を殲滅させるつもりであった[29]、という見解もある。黒田基樹は、「東国武家社会の伝統性」や、「氏政が暗愚であった」ことを徹底抗戦した根拠とするものに対して、徳川・長宗我部・島津と、有力大名達は概ね豊臣秀吉と武力対決しており、早めに恭順した上杉景勝と毛利輝元は、それ以前、織田政権と激しく争い追い詰められていたため、中央政権の強力さを知っていた故恭順したとして、「当主の資質の優劣」や「地方特有の伝統性」などが原因ではなく、「有力大名に普遍的にあるもの」こそが基盤にあるとして、これらの見解に反論している[30]。その上で、島津氏や長宗我部氏は本拠地が攻撃される前に降伏しており、本拠地まで攻撃される最終段階に至るまで抗戦したために、北条氏は滅ぼされるのは当然であった、と指摘する[31]。
後水尾天皇の勅撰と伝えられる『集外三十六歌仙』の32番に一首を採られている[32][33]。
守れ猶君にひかれてすみよしの まつのちとせもよろづよのはる

— 32.寄松祝 北条氏政



ー 逸話 -

北条氏政の逸話は、一般に知られているものの多くは否定的な印象を与えるもので、後世の創作も多い。

汁かけ飯の話
氏政の有名な逸話として2度汁かけの逸話がある。食事の際に氏政が汁を一度、飯にかけたが、汁が少なかったのでもう一度汁をかけ足した。これを見た父の氏康が「毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も量れんとは。北条家もわしの代で終わりか」と嘆息したという逸話である(汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来る訳がない、の意)。氏政が結果的に北条家の滅亡を回避できなかったことが、この逸話を有名なものにし、氏政の評価を一般的に低いものにしている。この逸話は後世の創作で、同様の内容は毛利氏の元就と輝元の間の話としても伝えられている[34]。

麦の話
『甲陽軍鑑』に記載されている話として農民が麦刈りをする様子を氏政が見て、「あの取れたての麦で昼飯にしよう」と言ったという話である。勿論刈った麦がそのまますぐ食べられる訳でなく、干し、脱穀し、精白するなどして、ようやく調理できるようになる。その話を伝え聞いた武田信玄はその無知ぶりを大いに笑ったというが実証はなされていない。


以上、Wikiより。



北条氏政