福原長堯 (ふくはら ながたか) | げむおた街道をゆく

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福原 長堯(直高)(ふくはら ながたか(なおたか))は、安土桃山時代の武将・大名。妻は石田正継の娘(石田三成の妹)。豊後国府内城主としては改名前の「直高」の方が有名であり、大分県の歴史書はほぼこの名で統一されている。



ー 生涯 -
福原則高の子として生まれる。播磨福原氏は赤松氏の一族で、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に滅ぼされた福原則尚や福原助就の同族とされる。
はじめ豊臣秀吉に小姓頭として仕えた。天正15年(1587年)4月、島津攻めの根白坂の戦いにおいて、宮部継潤らと共に根白坂の砦を守り切る。10月には北野大茶湯の奉行を務める。文禄元年(1592年)、文禄の役には肥前国名護屋城後備衆の1人として二の丸を守備した。文禄2年(1593年)、豊臣家蔵入地の播磨国三木郡の代官を務める。文禄3年(1594年)、伏見城の普請に従事し、その功により但馬国豊岡城2万石を領する(翌年に1万石加増)。豊臣秀次が高野山で自刃した際には、福島正則、池田秀氏とともに検死役を務める。慶長2年(1597年)2月、豊後府内大分・速水・玖珠郡内12万石に加増転封。同年、豊臣姓を下賜された。また慶長の役では朝鮮に渡り軍目付を務め、小早川秀秋、黒田長政、早川長政など味方の軍令違反などを秀吉に厳しく報告したとされる。
秀吉死後、形見の国俊の太刀を賜り、豊臣秀頼の小姓頭の1人となった。慶長4年(1599年)、従兄弟関係であった石田三成の失脚後、慶長の役での諸将との対立や府内城築城の過大な賦役を咎められ、徳川家康ら五大老より府内領は没収されて臼杵6万石のみの領有となる。関ヶ原の戦いの際には西軍に属し、垣見一直、熊谷直盛、木村由信・木村豊統父子らとともに大垣城の守将を務めたが、西軍主力の敗北後、相良頼房、秋月種長・高橋元種兄弟らの裏切りに遭い、一直らが殺害され城兵が離散したため進退に窮し、東軍の西尾光教の勧めで降伏。この際、石田三成から与えられていた名刀を東軍の水野勝成に奪われた。
大垣城の開城後、長堯は出家して道蘊と名乗り伊勢国朝熊山に蟄居する。水野勝成は家康に長堯の助命を願いでるが、石田三成の縁者ということもあって許されず自刃させられた。一説には殺害されたともいわれている。 長堯の死後、2歳だった子供は乳母らにより因幡国に逃れ、次の代で備前国に移った。この家系は現在も存続している。


以上、Wikiより。



福原長堯