福原貞俊 (ふくはら さだとし) | げむおた街道をゆく

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福原 貞俊(ふくばら さだとし、永正9年(1512年)~文禄2年8月10日(1593年9月5日)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。安芸福原氏11代当主。毛利氏の宿老であった福原広俊の嫡男。上記の福原貞俊(9代当主)の孫にあたり、それに肖って貞俊と名乗る。生年は永正16年(1519年)説もある。
前述の通り、曽祖父・広俊の娘(上記の福原貞俊(9代当主)の姉)が毛利弘元の正室となっており、毛利興元や毛利元就を産んでいる。父の広俊も元就に家督相続を打診するなど、毛利家中での発言力は大きかった。貞俊も早くから毛利元就に仕えて各地を転戦し、天文19年(1550年)、それまでの功績や誠実な性格を元就に信頼されて毛利氏における筆頭重臣にまで取り立てられた。
弘治元年(1555年)の厳島の戦いの後に、毛利氏が大内領への侵攻作戦である防長経略でも、長門且山城を囲んで内藤隆世と大内義長を自害に追い込んでいる。その後も小早川隆景らと共に瀬戸内海を中心に軍事行動を展開し、永禄10年(1567年)からの毛利氏の伊予出兵や、永禄12年(1569年)の大内輝弘の乱でも主力を率いて活動している。
元就死後は毛利輝元を補佐し、吉川元春、小早川隆景、口羽通良と共に四人衆と称された。主な任務としては、隆景と共に山陽方面の政治や軍事を担当している。天正12年(1584年)、高齢を理由に隠居した。子孫は江戸時代の長州藩においても、一門家老として重用されている。
なお福原氏には、戦国期から安土桃山時代にかけて広俊、貞俊、元俊を名乗った当主が複数いる。


以上、Wikiより。



福原貞俊