羽柴秀次 (はしば ひでつぐ) | げむおた街道をゆく

げむおた街道をゆく

信長の野望、司馬遼太郎、大河ドラマが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。

豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ) / 羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の2代目関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。
幼少時、戦国大名浅井長政の家臣宮部継潤が秀吉の調略に応じる際に人質となり、そのまま養子となって、初名は吉継、通称を次兵衛尉[注 2]とし、宮部 吉継(みやべ よしつぐ)と名乗った。次いで畿内の有力勢力だった三好一族の三好康長(笑岩)の養嗣子となり、今度は名を信吉と改めて通称は孫七郎とし、三好 信吉(みよし よしのぶ)と名乗って三好家の名跡を継いだ。
秀吉が天下人になると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。



ー 生涯 -

生い立ち
永禄11年(1568年)、秀吉の同母姉・とも(瑞竜院日秀)と弥助(後の三好吉房)夫婦の長男として尾張知多郡大高村で生まれた[1]。名は治兵衛(じへえ)[注 1]。
元亀元年(1570年)4月、織田信長と同盟していた北近江の浅井氏が離反して朝倉氏についたことから、信長は金ヶ崎より一旦撤退した後、6月に改めて徳川家康の援軍と共に出陣して、近江姉川河原で浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いで勝利した。その後、浅井親子が籠城して小谷城攻めは長期化したが、陥落させた支城の横山城に入り、攻囲の責任者となったのが秀吉であった。
秀吉は小谷城の他の支城に対して次々と調略を試み、元亀3年(1572年)、宮部城主の宮部継潤[注 8]を巧みに勧降したが、この際に継潤の安全を保障するための人質として送られたのが、当時4歳の甥の治兵衛であった。治兵衛は、名目上、継潤の養子とされ、治兵衛の百姓名を棄て、通称を次兵衛尉、諱を吉継と改めて、「宮部吉継」を名乗ることになった。『筑後国史』によると、この時に継潤によって宮部家家臣の田中久兵衛が傅役とされたと云う。彼は後に吉政と名を改めたが、秀次には最も長く側近として仕えている[2]。
天正元年(1573年) 9月1日、小谷城は陥落して浅井氏は滅亡した。(小谷城の戦い) 信長は第一の功績を秀吉に認めて同城を与え、宮部継潤も秀吉の与力の1人とされた。吉継(秀次)がいつまで宮部家の養子でいたのかわからないが、自分の臣下となった者に人質を出して置く道理がないため、天正2年(1574年)、琵琶湖沿岸に長浜城が築かれたときにはすでに復氏していたと考えられている[3]。羽柴姓か木下姓に戻っていたようであるが、6歳の秀次がこの頃に何と名乗っていたかは不明。

三好孫七郎
天正3年(1575年)、畿内で松永久秀や三好三人衆が信長に降った際に、三好一族で阿波に勢力を持ち、河内高屋城で籠城していた三好康長も降ったが、彼は松井友閑を介して、信長が欲しがっていた名器「三日月」を献上して大変喜ばれ、一転して家臣として厚遇されるようになった。信長はこの頃に土佐を統一した長曾我部元親の所領を安堵し、「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」と書いた朱印状を渡していたが、天正8年(1580年)に長曾我部氏が阿波に勢力を伸ばして、信長の家臣となっている三好康長の甥にあたる十河一存や息子康俊らの城を攻めるようになると情勢は変化した[4]。三好康長は秀吉に接近してその支援を得ると、織田家重臣で長曾我部氏との外交窓口となっていた明智光秀の考えが反映した従来の方針が撤回されるように働きかけた。その結果、天正9年(1581年)3月、信長は阿波勢と長曾我部氏の調停と称して、元親に阿波の占領地半分を返還するように命じたが、元親はこれに従わずに対立。翌年、信長三男の神戸信孝を総大将とする四国征伐が行われることになり、康長は信孝を養子とするという手筈であったが、天正10年(1582年)6月に本能寺の変があって全てが中止となった。
三好康長は連携を強めるために秀吉の甥を養子としてもらった。しかしその時期については諸説あり、早くは天正3年4月で荒木六之助は康長が投降した直後とする説をとるが、遅くは天正10年10月で諏訪勝則や谷口克広などが言う本能寺の変の後であったとする説もあり、本能寺の変や信孝を養子とするという話との関連性などを含めて不明な点がある。藤田達生や小和田哲男などは天正8年から9年にかけての前述の四国政策の転換時期であろうと推定しているが、それぞれの説には反論や史料的裏付けの不足などあって確定には至っていない[5]。
ともかく再び養子とされた吉継(秀次)は、通称を孫七郎と改め、諱を信吉[注 9]として、「三好信吉」と名乗るようになった。康長は河内半国を知行して若江城を居城としていたが、本能寺の変後に出奔してその後の消息は不明で、一説には出家して妙心寺に入ったとも言うが、実子の康俊もこの頃に亡くなったか何かで姿を消しているため、天正11年(1583年)頃には信吉が残った三好家の家臣団を率いる立場となり、河内北山2万石の大名となった。また百姓の倅が名門三好氏を継いだということで父の弥助も三好姓を用いるようになり、以後、三好武蔵守吉房と名乗りを改めた。
飯田忠彦の『野史』によると、天正10年の山崎の戦いの直前、秀吉のもとに馳せ参じた池田恒興の娘と信吉との婚約が約束されたと言い[6]、(結婚した時期は不明ながら)後に実際に結婚して正室とされた。清洲会議では、関東で足止めを食った滝川一益の代わりに恒興が宿老の1人として出席しており、この縁組は秀吉の多数派工作の一助となった。またこの頃、池田氏の所領から三田城[注 10]が信吉に譲渡されている。
天正11年、滝川一益が挙兵すると、信吉は中村一氏や近江勢2万を率いる大将として出陣して、鳥居本から大君ヶ畑峠を越えて伊勢に入リ、滝川儀太夫の籠る嶺城を攻略した。さらに続く賤ヶ岳の戦いでも第六陣を率いて参加したが、このときは活躍の場はなかった。この戦いで柴田勝家を破った秀吉が、信長の後継者として天下人の地位を確立すると、信吉は秀吉の数少ない縁者の中での二世世代の最年長者として重用されるようになり、天正12年(1584年)の春月頃、羽柴姓に復帰して羽柴 信吉(孫七郎)と名乗りを改めた。この時に三好家臣団から引き抜いた者を、特に若江八人衆[注 11]と言う。
しかし天下人の甥として期待されて参加した小牧・長久手の戦いでは失態を演じた。岳父である池田恒興と(羽黒の陣で敗北した)義兄森長可が三河に攻め入るという「中入り」策を秀吉に強く提案し、信吉もこの別働隊の総大将になりたいと志願して認められたが、4月9日、白山林で榊原康政・大須賀康高らに奇襲されて、壊滅的な大敗を喫したのである。軍目付として同行していた木下助左衛門と木下勘解由が信吉を守ろうとして討死する中で、本人は馬もなく徒歩で命からがら落ち延び、堀秀政隊の救援で何とか脱出した。結局、長久手では池田や森らの武将も尽く討たれてしまい、見苦しい敗北で不甲斐ない様を見せたとして、秀吉から激しく叱責される。
山鹿素行の『武家事紀』によれば、信吉は失った木下勘解由ら部下の代わりに池田監物を遣わされるように訴えたようで、一柳市助を使者としたが、秀吉は口上しただけの市助を手討ちにしようと思ったほど大激怒し、家臣を見殺しにした大たわけであるとして5箇条の折檻状を送って厳しく戒めた[7][8]。この中で秀吉は、自分の甥としての覚悟と分別を持つように求めて、それに応えるならば何れの国でも知行を認めるが、今の様に無分別ならば「一門の恥であるから手討ちにする」とまで述べている。また世継ぎである於次丸秀勝は病身であるから将来は名代を継がせる考えもあるが、それは覚悟次第であると述べて、重ねて自覚を持つように要求して、宮部継潤と蜂須賀正勝を派遣するので詳細を聞くようにと申し渡した。(渡辺世祐などはこれは後の切腹事件の布石となったと考えている[7]。)
天正13年(1585年)、秀吉が紀伊雑賀征伐に出陣すると、信吉(秀次)は秀長と共に副将を任されて汚名を雪ぐ機会をえた。3月21日、千石堀城の戦いでは、信吉軍は四方より猛然と攻めかかり、首は一つも取らずに打ち捨て、一揆勢を皆殺しにして城を落した。太田城攻囲にも参加した。続く同年6月の四国征伐では、秀吉が病気であったので、秀長が総大将となり、信吉は副将として明石より3万を率いて出陣し、鳴門海峡を経て阿波の土佐泊に上陸。黒田孝高、宇喜多秀家ら備前・播磨勢と合流した後に、比江山親興の籠る岩倉城を攻めて落城させた。
同年7月頃、正確な時期はわからないが、秀吉が関白就任したのに前後して、その偏諱を受けて秀次と改名し、羽柴 秀次を名乗った[9][10]。

二代関白へ
8月6日、長曾我部元親が降伏して四国平定が成ると、その後の評定によって大掛かりな国替え・加増が行われた。結果、秀次の本人分としては20万石、宿老(中村一氏・山内一豊・堀尾吉晴)たちへの御年寄り衆分としては23万石が与えられ、併せて43万石の大名とされた。所在地は東西交流の要となる近江の蒲生郡・甲賀郡・野洲郡・坂田郡・浅井郡の5郡[11]で、秀次は蒲生郡の現在の近江八幡市に居城を構えることとし、安土を見下ろして琵琶湖にも近い場所に、八幡山城を築いた。
縄張や築城工事の都督、作業工程まで具体的な指示が書状で示されているところを見ると、諸将の配置、場所の選定なども含めてすべて秀吉の指図であったと思われる。八幡山城は後の事件で破却を命じられたために現存しないが、日牟禮八幡宮の上宮を移築して山頂の尾根に三層の天守閣が築かれた山城は、所謂、詰の城(つめのしろ)で、山麓の居館との二つに分かれていた。城下町の町人は主に安土から転居しており、計画的に造られた町並みは、八幡堀として現在もその姿を留めている。上下水道も整備され、地名に残る「背割」とはもともとは下水のために掘られた溝をさす。
秀次は、領内の統治では善政を布いたと言われ、近江八幡には「水争い裁きの像」などの逸話[注 12]が語り継がれている。これは宿老の田中吉政の功績が大きいとも言われているが、悪政を敷いた代官を自ら成敗したり、名代を任せた父の三好吉房について「頼りない」と評価する[12]など主体性を発揮した面も伝わっている。まだ17歳であったことを考慮すればこれは肯定的に評価でき、吉政らの補佐を受けつつ、徐々に家来を使いこなして順調な統治を進めたのであろう。
また同年10月頃、秀次は従四位下、右近衛権少将に叙任された。
天正14年(1586年)の春頃、秀次は右近衛権中将に叙され、11月25日、豊臣の本姓を秀吉から下賜され[13]、同時に参議にも補任された。
天正15年(1587年)、九州征伐では、前田利家を輔佐として、秀吉の名代で京都留守居を命じられて、秀次は出陣しなかった。11月22日に従三位に昇叙して権中納言に叙された。
天正16年(1588年)4月14日に聚楽第に後陽成天皇の行幸を迎えた際、忠誠を誓う署判の序列では、徳川家康(大納言)、織田信雄(内大臣)、秀長(権大納言)、秀次、宇喜多秀家、前田利家の順で署名したが、この時までに秀次の家臣内序列は四番目に上がっていた。4月19日には従二位に昇叙。
天正18年(1590年)の小田原征伐には出陣し、秀長の病気であったために秀次が副将とされ、今度は徳川家康の指南を受けるように指示された[14]。山中城攻撃では秀次が大将となって城を半日で陥落させ、守将松田康長の首を取ったが、一方でその戦闘で家老の一柳直末(市助)を失っている。小田原城包囲では、秀次軍は荻窪口に陣取り、7月5日、北条氏の降伏まで在陣した。
小田原城開城が一段落した直後である7月18日、秀次はそのまま奥州平定に出発して、8月6日には白河に到着。9日には黒川に至った。伊達政宗から没収して蒲生氏郷に与えられた三郡の内、会津郡の検地の監督を秀次は命じられていたが、秀吉が京都に帰還した後、葛西大崎一揆が起こった。当初、氏郷が一揆は政宗が扇動したものであると秀吉に報告したため、秀次と家康に出陣が命じられたが、後に誤報として処理されて、一旦取り消しとなった。しかし天正19年(1591年)2月には九戸政実の乱が起きて、鎮圧に手こずった南部信直より援軍要請を受けた秀吉は、葛西大崎一揆の裁定と九戸征伐の両方を進めるために、改めて諸将に出陣を号令した。伊達政宗、蒲生氏郷、佐竹義宣・宇都宮国綱、上杉景勝、徳川家康、そして秀次の六番の隊が出征し、総大将は秀次が務めた。
この様に秀次は奥州にいて不在であったが、小田原攻めの論功行賞で、織田信雄が東海道五カ国への移封を拒否して改易されたので、信雄領であった尾張・伊勢北部5郡などが秀次に与えられ、旧領と合わせて100万石の大大名とされた。(ただし播磨良紀は研究で、北伊勢5郡については秀次の統治を示す一次史料が一通も見つかっていないと指摘して、これを含まないという説を唱えている[15]。) これに伴って、秀次は居城を清洲城に移した。年寄衆の所領も東海道に転封された。
同じ天正19年の1月22日に豊臣秀長が、8月5日には秀吉の嫡男鶴松が相次いで死去した。通説ではこの年の11月に秀次は秀吉の養嗣子となったとされるが、養子となった時期についても、従来より諸説あって判然としておらず、それ以前に養子とされていたという説もある[16]。しかしこの頃に秀吉は関白職を辞して、征明遠征に専心しようと思い立ち日本の統治を秀次に任せると言い出しており、後継者にすることが決まったことは、ほぼ確実のようである。関白職の世襲のために秀次の官位は、急遽引き上げられ、11月28日には権大納言に叙され、12月4日には内大臣に叙された。
12月20日、『本願寺文書』および『南部晋氏所蔵文書』によると、秀吉は5ヶ条の訓戒状を秀次に出している[17]。前4条は天下人としての一般的な心得を述べたものだが、最後の条で「茶の湯、鷹野の鷹、女狂いに好き候事、秀吉まねあるまじき事、ただし、茶の湯は慰みにて候条、さいさい茶の湯をいたし、人を呼び候事はくるしからず候、又鷹はとりたか、うつらたか、あいあいにしかるべく候、使い女の事は屋敷の内に置き、五人なりとも十人なりともくるしからず候、外にて猥れかましく女狂い、鷹野の鷹、茶の湯にて秀吉ごとくにいたらぬもののかた一切まかり出候儀、無用たるべき事」と個人的な行いについて特に”自分のように振る舞うな”と戒めて、神明に誓わせた。(渡辺世祐などはこれを切腹事件への第二の布石と見ている。)
12月28日に、秀次は関白に就任して、同時に豊臣氏の氏長者となった[18]。関白就任以後、秀次は政庁である聚楽第を主な住居として政務を執ったが、諸事は秀吉が定めた「御法度」「御置目」に従うようにされており、太閤秀吉が依然として統括的立場を保持して二元政治のようになった。
天正20年(1592年)1月29日、左大臣に補任された。2月には2回目の天皇行幸があり、秀次がこれを聚楽第で迎えた。これは秀次への権力世襲を内外に示したものと理解されている。
3月26日に淀殿を伴って名護屋城に出征した秀吉が唐入りに専念する一方で、秀次とその家臣団による国内統治機構の整備は進んでいったようである[19]。朝尾直弘は「いったん譲ってしまうと、関白を中心とする国制機能は独自に発動され、太閤権力の制御の枠をこえる動きをみせようとした」[20]と説明するが、『駒井日記』の4月7日の条によると、前田利家、前田利政、佐竹義宣、里見義康、村井貞勝、真田昌幸らの官位授与・昇叙に対して太閤は関白の同意を求めて、その上で上奏するように指示しており、制度上の関白秀次の地位が、独自の権力を生む余地を生んだとされる。秀吉の隠居地とされた伏見城(指月城)[注 13]の築城作業も、結局は秀次の管理下で行われた。8月の大政所の葬儀も、喪主は秀吉であったが、葬儀を取り仕切ったのは秀次であった[注 14]。
12月8日に元号が文禄に改元されるが、この時期に天皇即位や天変地異など特に改元すべきふさわしい理由はなく、これは秀次の関白世襲、つまり武家関白制の統治権の移譲に関係した改元であったと考えられている[21]。

秀頼誕生後
ところが、継承が済んだ後になって、肥前から戻った淀殿の懐妊が判明した。当初、平静を装っていた秀吉であった[22]が、文禄2年(1593年)8月3日、大坂城二の丸で淀殿が秀頼(拾)を産むと、その報せを受けた8月15日には名護屋城を発ち、25日に大坂に来て我が子を抱きかかえたほどの、大変な喜びようであった。『成実記』には「秀吉公御在陣ノ内若君様御誕生ナサレ候、秀次公ヘ聚楽御渡候ヲ、内々秀吉公御後悔ニモオボシ候哉、治部少見届、御中ヲ表裏候由見ヘ候」[23]とあり、(この話の史実性にはやや疑問がある[注 15]が)通説のように秀吉が関白を譲ったのは早計であったと思い直したとしても不思議はなかった。
山科言経の『言経卿記』によると、9月4日、秀吉は伏見城に来て、日本を5つに分け、その4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲ると申し渡したそうである[24]。この後、秀次は熱海に湯治に行ったが、旅先より淀殿に対して見舞状を出すなど良好な態度であった[25]。ところが、『駒井日記』の10月1日の条によると、前田利家夫妻を仲介人として、まだ生まれたばかりの秀頼と当時1歳の秀次の娘(後の露月院)を婚約させ、将来は舅婿の関係とすることで両人に天下を受け継がせるのが秀吉の考えであり、秀次が湯治より帰ったら言い渡されるそうだと(祐筆の)木下半介が(駒井に)教えたと言う[26]。これからは3代目の後継者は秀頼としたいという秀吉の意図が読み取れるが、このような重大な決定が不在中(帰還は11月)に頭越しに決められては秀次の感情も変わっていったと思われる。
宮本義己[注 16]は、典医曲直瀬玄朔の診療録である『玄朔道三配剤録』を分析して、秀次が秀頼誕生によって気の病・心の病に罹って「関白の座を逐われるのではないか」との不安感で耗弱し、情緒不安定になったと説明する[27]。先の熱海温泉への湯治も秀次の”病気”治療のためであったが、前述のように秀吉の露骨な秀頼溺愛があって、心休まるような状態ではなく、むしろ悪化した。小林千草は秀次はもともと激情の人であり、突然の環境の変化が「理性のはどめのきかない部分」を助長したのではないかと言う[27]。
しかし一方で、両者の関係は少なくとも表面上は極めて良好であった。『駒井日記』によると、文禄3年(1594年)2月8日、秀次は北政所と吉野に花見に行っており、9日には大坂城で秀吉自身が能を舞ったのを五番見物した。13日から20日までは2人とも伏見城にあって舞を舞ったり宴会をしたりして、27日には一緒に吉野に花見に行っている。3月18日には、滋養に利くという虎の骨が朝鮮から秀次のもとに送られてきたので、山中長俊が煎じたものを秀吉に献じて残りを食している。このような仲睦まじい様子が翌年事件が起こる直前まで記されて、何事もなく過ごしていたのである[28][注 17]。
秀吉は当初、聚楽第の秀次と大坂城の秀頼の中間である伏見にあって、自分が仲を取り持つつもりであったが、伏見城は単なる隠居地から機能が強化され、大名屋敷も多く築かれるようになって、むしろ秀次を監視するような恰好になった。4月、秀吉は普請が終わった伏見城に母子を呼び寄せようとしたが、淀殿が2歳で亡くなった鶴松(棄丸)を思って今動くのは縁起が悪いと反対し、翌年3月まで延期された。秀頼の誕生によって淀殿とその側近の勢力が台頭したことも、秀次には暗雲となった。またこの頃、大坂城の拡張工事と、京都と大阪の中間にあった淀城も破却工事が実施されたが、中村博司は論文で、これは聚楽第の防備を削り、大坂の武威を示す目的があったのではないかと主張する[29]。
他方で、文禄の役では『豊太閤三国処置太早計』[30]によると、秀次は文禄2年にも出陣予定であったが、秀吉の渡海延期の後、前述の病気もあって立ち消えになっていた。外交僧の景轍玄蘇が記した黒田如水墓碑文(崇福寺)によると、如水は博陸(=関白)に太閤の代わりに朝鮮に出陣して渡海するように諫めて、もしそうしなければ地位を失うだろうと予言したが、秀次は聞き入れなかったそうである[31]。『続本朝通鑑』にも、如水が名護屋城で朝鮮の陣を指揮している太閤と関白が替わるべきであると諭し、京坂に帰休させることで孝を尽くさずに、関白自身が安楽としていれば恩を忘れた所業というべきで、天下は帰服しないと諫言したが、秀次は聞かずに日夜淫放して一の台の方ら美妾と遊戯に耽ったと、同様の話が書かれている[31]。翌年正月16日付の吉川広家宛ての書状にも、「来年関白殿有出馬」の文字があるが、秀次の出陣は期待されつつも実現していなかった[31]。

切腹事件
文禄4年(1595年)6月末、突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がった。その理由については後の節でさらに詳しく述べるが、事件を最初に描いて太閤記などその後の軍記の底本となり強い影響を与えた太田牛一の『太閤さま軍記のうち』では、「鷹狩りと号して、山の谷、峰・繁りの中にて、よりより御謀反談合とあい聞こえ候」[32]と描写し、鷹狩りを口実にして秀次を中心とする”反秀吉一派”が山中で落ち合って謀議を重ねているという噂があったとするが、雲を掴むような話で後述するように当時の人々にとっても俄かに信じがたいものであった。
しかしながら、7月3日(または6月26日)[注 18]、聚楽第に石田三成・前田玄以・増田長盛・富田左近など[注 19]秀吉の奉行衆が訪れて巷説の真偽を詰問し、誓紙を出すように要求した。秀次は謀反の疑いを否定して、吉田兼治に神下ろしをさせた前で起請文をしたため、7枚継ぎの誓紙を渡して逆心無きことを誓った。誓紙提出については『家忠日記』[注 20]にも記されていて史実性は高いと考えられている[33]。他方で『御湯殿上日記』によると、秀次は7月3日に、朝廷に白銀3千枚、第一皇子(覚深法親王)に5百枚、准三宮(勧修寺晴子と近衛前子)に各5百枚、八条宮智仁親王[注 7]に3百枚、聖護院道澄に5百枚を献納しており[34]、何らかの多数派工作を行ったのか、もしくは(仮に同日であれば)偶然の一致が疑いを招き、粛清の口実になったのではないかと考えられる[35]。
7月5日、石田三成[注 21]が、昨年春に秀次が家臣白江備後守を毛利輝元のもとに派遣して独自に誓約を交わして連判状をしたためていると(輝元より申告があったと)報告[36][注 22]したことから、秀吉は「とかく父子間、これかれ浮説出来侍るも、直談なきによれり」[37]として、秀次に伏見城への出頭を命じた。しかしこれも事実無根の訴えであり、秀次はすぐには応じなかったようである。『続本朝通鑑』には、5日黎明、当時聚楽第近くの館にいた徳川秀忠を秀次が人質としようとしたので大久保忠隣と土井利勝が相談して秀忠を伏見へ脱出させたという記述がある[38]が真偽のほどは定かではない。3日間どのようなやり取りや出来事があったかは明らかではない[37]が、事態は思いがけぬ方向に急転した。
7月8日、再び、前田玄以・宮部継潤・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊の5名からなる使者が訪れ、秀次に伏見に出頭するよう重ねて促した。使者の宮部は秀次の元養父、堀尾・中村・山内はもとは秀次の宿老だった面々であった。『甫庵太閤記』では、堀尾吉晴がなかなか言い出せないでいると、吉田修理が割って入って、もし疑われるような事がないのならすぐに伏見に立つように、もし野心があって心当たりがあるのならば一万の軍勢を預けていただければ先陣を切って戦うと啖呵を切ったので、秀次はその忠勤の志に安心したが、それには及ばないと出頭を了承したとされる。『武家事紀』ではこれに加えて、秀次は自ら積極的に冤罪を晴らすとして伏見に向かったとされる。一方、宣教師達の所見をまとめた『日本西教史』では、この5名が五ヶ条の詰問状[注 23]を示して謀反の疑いで秀次を弾劾したことになっていて、清洲城[注 24]に蟄居するか伏見に来て弁明するかを命じたので、秀次は観念して慈悲を請うために伏見に向かったとされている[39]。他方、『川角太閤記』や『利家夜話』ではこれらとは異なり、秀吉によって使者を命じられた比丘尼孝蔵主が秀次を騙して、侍医や小姓衆など僅かな供廻りだけを連れて伏見にくるように謀ったとされ、もともと秀吉には直談する意思はなく、おびき出すための謀略であったとされている[40]。
秀次は伏見に到着したが、登城も拝謁も許されず、木下吉隆(半介)の邸宅に留め置かれた。上使に「御対面及ばざる条、まず高野山へ登山然るべし」[37]とだけ告げられた秀次は、すぐに剃髪染衣(ていはつぜんえ)の姿となり、午後4時頃、伏見を出立した。監視役として吉隆、羽田長門守、木食興山上人が同行した。その日は玉水に泊まったが、そこまでは2、3百騎の御供が従っていたので、石田三成から多すぎると指摘され、9日からは小姓衆11名[注 25]と東福寺の僧虎岩玄隆(隆西堂)[注 26]のみが付き従った。移動する途中で秀次左遷の御見舞いの飛脚が次々とやってきて賑わいを見せたので、駒井重勝および益田少将[注 27]と連絡をとって見舞いを送らないように通達を出させた。この夜は興福寺中坊に泊まった。10日、高野山青巌寺に入り、この場所で秀次は隠棲の身となった。この出家の際に道意と号した[41]とも言い、以降は豊臣の姓から豊禅閤(ほうぜんこう)と呼ばれることがある[注 3]。
秀次の妻妾公達らは8日の晩に捕えられて家臣の徳永寿昌宅に監禁され、監視役として前田玄以と田中吉政が付けられていたが、11日に丹波亀山城に移送された。12日、秀吉は、さらに高野山の秀次に対して供廻りの人数や服装の指定、出入りの禁止と監視を指図し、監禁に近い厳しい指示を出した[42]。
7月13日、『太閤さま軍記のうち』によれば、四条道場にて秀次の家老の白江備後守が切腹。妻子も後を追って自害した。同じく嵯峨野二尊院で熊谷大膳が切腹。摂津国の大門寺で木村常陸介が斬首[43]され、財産没収となった[注 28]。木村の妻子は一旦は法院の預かりとなったが、後に三条河原で磔にされた[44]。
他の家臣については、一柳右近は徳川家康に、服部采女正は上杉景勝に、 渡瀬繁詮は佐竹義宣に、明石左近は小早川隆景に、羽田長門守は堀秀政に、前野長康・景定親子は中村一氏に、それぞれ身柄を預けられた。粟野木工頭は自邸にて切腹(または三条河原にて斬首)。縁者である日比野下野守と山口小雲は北野で、丸毛不心斎は相国寺で切腹。吉田修理は逃亡した。木下吉隆[注 30]、荒木安志(馬術の師匠)、曲直瀬玄朔、里村紹巴(歌の師匠)は、遠流とされた[45]。
7月15日、高野山に福島正則・池田秀氏・福原長堯の3名の検使が兵を率いて現れ、秀次に賜死の命令が下った[注 31]ことを告げた。ところが、『甫庵太閤記』によれば、木食上人が仏教寺院内では寺法により無縁の原理が認められており罪人すら保護されると抗議した。木食上人は衆徒と対応を評議すると言って引き伸ばし、切腹を何とか阻止しようと食い下がったので、衆徒との間で一触即発の事態となる。しかし秀吉に逆らえば高野山の寺院そのものが失われるという恫喝に近い福島の説得があり、秀次も切腹を受け入れたために対決は回避された[46]。
秀次は名刀を多数所持していたが、山本主殿助、山田三十郎、不破万作の小姓衆は名だたる刀匠の脇差を賜ると、次々と腹を斬り、この3名の殉死者は秀次が自ら介錯した。虎岩玄隆は太刀で自ら腹を切って果てた。5番目についに秀次の番となり、雀部重政[注 29]の介錯により切腹して果てた。享年28[47]。法名は、高野山では善正寺殿高岸道意大居士とし、菩提寺の瑞泉寺では瑞泉寺殿高厳一峯道意とされている。
辞世は「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」。
雀部重政もすぐに自害して後を追ったが、秀次の介錯に用いた彼の刀、南都住金房兵衛尉政次は、兄の雀部六左衛門の子孫に受け継がれて、現在は大阪城の天守閣内・博物館「大阪城天守閣」に寄贈されている[47]。また青巌寺(現:金剛峯寺)の柳の間は、現在では”関白秀次自刃の間”として知られる。
秀次及び同日切腹した関係者の遺体は、高野山奥の院の千手院谷、光台院の裏の山に葬られ、福島正則は首だけを検分のために伏見に持ち帰った。
「#謀反説とその否定」および「#秀次の罪状」も参照

その後
7月16日、秀吉は三使が持ち帰った秀次の首を検分した。しかし秀吉はこれで満足せず、係累の根絶をはかった。7月31日、秀次の妻妾公達が亀山城より京都の徳永邸に戻され、8月1日、翌日に処刑されると通達されたので、女性達は辞世の句を認めたり、身支度などをした。
8月2日(9月5日)早朝、三条河原に40メートル四方の堀を掘って鹿垣を結んだ中で処刑が行われることになり、さらに3メートルほどの塚を築いて秀次の首が西向きに据えられた。その首が見下ろす前で、まず公達(子供たち)が処刑された。最も寵愛を受けていた一の台は、前大納言菊亭晴季の娘であって北政所が助命嘆願したが叶わず、真っ先に処刑された。結局、幼い若君4名と姫君、側室・侍女・乳母ら39名[注 32]の全員が斬首された。子供の遺体の上にその母らの遺体が無造作に折り重なっていったということで、観衆の中からは余りに酷いと奉行に対して罵詈雑言が発せられ、見物にきたことを後悔した者もいたと言う[48][49]。
数時間かけて行われた秀次の眷族の処刑が済むと、大量の遺体はまとめて一つの穴に投じられた。この穴を埋め立てた塚の上に秀次の首を収めた石櫃が置かれて、首塚が造られた。首塚の石塔の碑銘には「秀次悪逆」の文字が彫られており、後述のような殺生関白の悪評もあって、人々はこれを「畜生塚」[注 33]や「秀次悪逆塚」と呼んでいたが、鴨川の洪水で流出した後はしばらく放置されていた。慶長16年(1611年)、河川改修の際に石版を発見した豪商角倉了以が、供養のために瑞泉寺を建立し、「悪逆」の文字が削られて供養塔として再建された。同寺には、秀次ら一族処刑の様子を描いた絵巻「瑞泉寺縁起」が残されている[50]。
大名預かりとなっていた家老7名(前野父子・一柳・服部・渡瀬・明石・羽田)は全員賜死をたまわり切腹した[注 34]。他の家臣にも遠流になった者がかなりおり、遺臣の中で許された者の多くは(石田三成陰謀説に反して)石田三成や、前田利家、徳川家康らに仕えた。
事件では多くの連座者を出したが、相婿の関係[注 35]にあった浅野幸長は、秀次を弁護したこともあって、能登に配流となり、その父・浅野長政も秀吉の勘気を蒙った。細川忠興は、切腹した前野景定の舅であり、秀次に黄金2百枚の借金もしていた。忠興は娘をすぐに離縁させ、徳川家康に取り成しを頼んで、借財を何とか弁解し、結局、借金は秀吉に返すことで難を逃れた。伊達政宗は日頃より秀次と懇意にしていたことから、謀反の一味の可能性があると見なされた。事件が明らかになると(同じく懇意としていた)施薬院全宗からすぐに大坂に来て弁明するのが良いと忠告されたので、岩出山城から急ぎ上京した。すると前田玄以・施薬院全宗・寺西筑後守・岩井丹波守[注 36]からなる詰問使の訪問を受けたが、政宗は豊臣家の2代目たる関白に誠心誠意に奉公しようとしただけであると弁舌巧みに自己弁護したので、秀吉はこれを許して、8月24日、秀頼への忠誠を命じる朱印状を出し、伏見城下に伊達町をつくるので、そこに屋敷を構えて家老や妻子、1000名の家来を常駐させるように命じた。最上義光は娘を秀次の側室に差し出していたことで咎められた。この駒姫は事件が起こった時にはまさに上京したばかりで秀次の寝所にも入っていなかったので、前田利家、徳川家康らが助命嘆願したが、ほかの妻妾と同じように三条河原で処刑された。これが憐れであるというので義光も結局は許された[51]。十丸の祖父にあたる北野松梅院も、娘と孫を処刑されたが、北野天満宮祠官という地位のために本人は死を免れた。
秀次の遺児の中では、淡輪徹斎(淡輪隆重)の娘・小督局[注 37]との娘で生後1ヶ月であったというお菊は、祖父の弟の子の後藤興義に預けられて助かり、後に真田信繁の側室・隆清院となった娘とその同母姉で後に梅小路家に嫁いだ娘も難を逃れた、と言い伝えられている[注 38]。
縁故の人物を殺しつくした後には、秀次の痕跡まで消し去ろうと聚楽第や近江八幡山城の破却が命じられた。聚楽第の堀は埋め戻されて基礎に至るまで徹底的に破壊され、周囲の諸侯の邸宅も同時に取り壊された。現在の京都に、聚楽第の遺構が殆んど全く残っていないのはこのためである。近江八幡山城は、当時は親族大名の京極高次が城主であったが、城と館は破壊され、高次は大津城主に転じた。この際に近江八幡山城の部材の一部を大津城に移築したという説もある[52]。
秀吉は、事件が諸大名を動揺させないように、特に朝鮮に出兵中の諸将を安心させるために(高野山入り後の7月10日頃)書状を多数発して、真相をぼかしつつも事情を説明した。その上で、秀次切腹の前である7月12日、今後は拾(豊臣秀頼)に対して忠節を誓うように諸大名に求めて、誓紙を書かせている[53]。
さらに眷族皆殺しの翌日である8月3日には、五大老の名で御掟五ヶ条を発令して、事件の発端となった秀次と輝元の誓約について、以後は諸大名間の縁組・誓約(同盟)が全面的に禁止されるとした。また時期は不明だが、綱紀粛正が目的と思われる御掟追加九ヶ条も定められた[54]。
このように秀吉は、秀次に関係したものを抹消した一方で、事件の影響を最少に収めようとも努めたが、藤木久志[注 39]は、政権内部の対立が秀次事件を機としてさらに深刻化したと評している[55]。秀吉の晩年、秀次は豊臣家の二世世代では唯一の成人した親族であった。秀次とその子をほぼ殺し尽くしたことは、数少ない豊臣家の親族をさらに少なくし、豊臣家には秀頼を支える藩屏が全く存在しない危険な状態とした。また、秀次事件に関係し秀吉の不興を買った大名は、総じて徳川家康の助けを受けて難を逃れたので、関ヶ原の戦いで徳川方である東軍に属することにもなった。笠谷和比古[注 40]は、朝鮮出兵をめぐる吏僚派と武断派の対立などとともに、秀次事件は、豊臣家及び豊臣家臣団の亀裂を決定的にした政権の政治的矛盾のひとつであり、関ヶ原の戦いの一因となったと指摘している[56]。



ー 人物・逸話 -

秀次は通説として凡庸・無能な武将として見られることが多いが、秀次の失敗は16歳の時の小牧・長久手の戦いの敗戦の一度だけであり、その後の紀伊・四国攻め、小田原征伐での山中城攻め、奥州仕置などでは武功を上げ、政務においても山内一豊、堀尾吉晴らの補佐もあって無難にこなした。これらが群臣に支えられた結果だとしても、同様の境遇になった2代将軍の徳川秀忠の将軍職就任以前と比しても、遜色ないどころかむしろ上回っているとさえ言える。凡庸はともかくとして、少なくとも無能を示す史料的論拠は皆無である。秀次が本格的に統治を行った近江八幡では、町割など行政活動を積極的に行って発展させており、近江八幡では未だに尊敬されていることを考慮すると、相応の力量はあり、文武両道の人物であったようである[96]。
古典の収集に励み、これを保護した。小田原征伐後、奥州に赴いた秀次は中尊寺の大蔵経を接収してこれを持ち帰った。このほかにも足利学校や金沢文庫所収の書籍をも持ち帰っている。また、かねてから蒐集していたとみられる『日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』『類聚三代格』『実了記』『百練抄』などを朝廷に献じてもいる[105]。
秀次は古筆を愛し、多くの公家とも交流を持つ当代一流の教養人でもあった[103]。天正16年以前に「源氏物語」を書写させて所持していた[105]。学問の上達ぶりを賞賛する公家の手記も現存する。一方、在野の学者である藤原惺窩などは秀次を低く評価し、「学問が穢れる」と相手にしなかったと言われている。ただし藤原惺窩の父・細川為純は秀吉によって見殺しにされているため、秀吉の養子である秀次をあえて酷評した可能性も否定できない。
養父の三好康長は茶人としても有名で、連歌でも秀でていた。秀次も養子に入ってからこれらを習い、茶道や連歌を嗜む教養人であった。15歳の頃から著名な歌人の集まる連歌会に名を連ね、亭主も務めたこともあった。上記の古典収集や文芸に秀でていたという公家の日記や、その他の史料の上からも文化的素養を持つ人物として秀次像を十分に再評価できるため、太田牛一の著書以後に広まった極端に粗暴な人物というイメージは間違いであると小和田哲男などは反論している。この反論の中では太田牛一以前には暴虐な振る舞いを示すような史料がなく、著書の影響で世間の秀次に対する見方が変わったことが強調される。
一般に秀次は千利休の弟子だった[106]と言われており、神屋宗湛・津田宗及・利休らと茶会を同席していた。また秀吉より(利休流)台子点前の秘伝を受けた台子七人衆の1人に秀次も数えられている。
秀吉をまねて秀次も能楽を自ら演じるようになったが、彼は公家・禅僧らに命じて最初の謡曲の注釈書である『謡抄』を編纂させ、後世の文芸に大きな影響を与えた。
秀次事件のとき、秀吉古参の家臣である前野長康、さらには木村重茲(しげこれ)、渡瀬繁詮など多くの人物たちが秀次の無罪を主張し、『五宗記』によれば、石田三成も秀次を弁護している。(石田陰謀説については別記) また、家臣・小姓からは殉死者も出しており[107]、特別に無道に奔った徳のない人物ではなく、他者から見放されたようなことはなかったことが窺える。
キリスト教宣教師たちは秀次を「この若者は伯父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった[108]」「穏やかで思慮深い性質である」などと記している(ルイス・フロイス『日本史』など)。なお、秀次にはキリシタンではなかったかという説もある[109]。
秀吉と同じく男色を嫌っていた[108]。
武術については、疋田景兼より剣術と槍術を学んだほか、長谷川宗喜や片山久安からも剣術を学んだといい、切腹の際の介錯ができるだけの腕前があったという。刀剣の鑑定も行っていた形跡もある。このほか吉田重氏から日置流弓術を、荒木元清からは荒木流馬術も学んでいた。剣術試合を見世物として楽しみ、聚楽第で兵法者の真剣での試合を催すことがあった。秀次所用と伝わる「朱漆塗矢筈札紺糸素懸威具足」が、サントリー美術館に所蔵されている[注 49]。
大名の常として、秀次も有力な家臣の子などに偏諱を授けている。偏諱を受けたと思しき武将には田中吉次、織田長次、増田盛次らがいるが、秀次の偏諱は他の武将と異なり、下偏諱を諱の下の字として与えるという変わった形態を取っている。これは「秀」の字が、秀吉の偏諱によるものであるため、それを憚ったものと思われる。
天正20年、「御家中人数備之次第」に家臣団構成が記されており、御馬廻左備(牧主馬などが属す)などの組織名が記録に残っている。同書には御馬廻右備219人の組頭として大場土佐、御後備188人の組頭として舞兵庫の名が記されている[要出典]。


以上、Wikiより。



羽柴秀次