芳賀高経 (はが たかつね) | げむおた街道をゆく

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芳賀 高経(はが たかつね、明応6年(1497年) - 天文10年(1541年))は日本の戦国時代の武将で、下野国の戦国大名宇都宮氏の家臣。芳賀高照・高継の父。法名は道的。
芳賀氏は下野において益子氏を棟梁とする紀党と並ぶ清原氏の一党つまり清党の棟梁。代々、清・紀両党が宇都宮氏の武力の大きな柱であった。戦国期には一族の正綱が宇都宮本家の当主ともなっている。
芳賀高経は真岡城を領していたが、1512年、一族の者を宇都宮成綱(正綱の子で興綱の兄)に殺されたため(宇都宮錯乱)、それを恨んで1536年、宇都宮興綱を自害に追い込んだという。しかしその復讐に立ち上がった興綱の子・宇都宮尚綱と対立した高経は、皆川氏と手を結んで反乱を起こしたが、1541年、尚綱によって殺された。一説には、尚綱と小山高朝の間の和平を進める芳賀高経とこれに反対する壬生綱房の対立があり、高経が進めた和平交渉が小山氏・結城氏の宇都宮侵攻によって破綻したことで、尚綱の不信を買ったことが原因ともいう[1]。


以上、Wikiより。



芳賀高経