丹羽長秀 (にわ ながひで) | げむおた街道をゆく

げむおた街道をゆく

信長の野望、司馬遼太郎、大河ドラマが大好きです。なんちゃってガンダムヲタでもあります。どうぞよろしく。

丹羽 長秀(にわ ながひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田氏の家臣。



ー 生涯 -

織田家臣時代
天文4年(1535年)9月20日、丹羽長政の次男として尾張春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれる。丹羽氏は元々斯波氏の家臣であったが、長秀は天文19年(1550年)から織田信長に仕えた。天文22年(1553年)、梅津表の合戦にて19歳で初陣。弘治2年(1556年)の稲生の戦いでは信長方に付き、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにも今川義元の攻撃部隊には入っていないものの従軍はしている。
『信長公記』などから斎藤龍興との美濃における戦いで台頭したと考えられ、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて信長が上洛した際、南近江の六角氏征伐で武功を挙げた(観音寺城の戦い)。その後も高屋城の戦い、長篠の戦いや越前一向一揆征伐など、各地を転戦して功を挙げる。さらに長秀は軍事だけではなく、政治面においても優れた手腕を発揮し、安土城の普請奉行を務めるなど多大な功を挙げている。天正9年(1581年)には、越中木舟城主の石黒成綱を信長の命令で近江で誅殺した。越中願海寺城主・寺崎盛永父子も、信長の命令で、長秀が城主をつとめる近江佐和山城で幽閉の後、切腹となった。
姉川の戦いの直後から信長は8ヶ月におよぶ近江佐和山城の包囲を続けていたが、元亀2年(1571年)2月24日に城将の磯野員昌が開城勧告を受けて退城すると、代わって長秀が佐和山城主となった[2]。更に長秀は信長から若狭一国を与えられ、天正9年(1581年)の京都御馬揃えにおいても、一番に入場するという厚遇を与えられている。また同年の天正伊賀の乱にも従軍しており、比自山城の戦いなどで戦っている。家老の席順としては柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、両名は織田家の双璧といわれた[3]。
ただし軍事的な面では、独立した軍を持つ柴田勝家・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉などの一段下とみなされ、知行も信長治世の末期には彼らとは大きな開きが生じていた。信長の死の時点でも信長の三男で四国方面軍司令官・織田信孝を補佐する立場にあり、仮に実質上は司令官的な立場だったにしても、名実とも各方面軍司令官に就いていた上記4人よりは劣った待遇となっている。

若狭の支配
織田政権が天正元年(1573年)までに支配権を握った若狭のうち、当初の大まかな知行宛行は遠敷郡が長秀、三方郡が粟屋氏、大飯郡が逸見氏であり各領主は所領内に独立した支配権を持っていた。この頃の長秀の家臣として溝口秀勝・長束正家・建部寿徳・山田吉蔵・沼田吉延などがおり、与力としては信長直臣となった若狭衆(武田元明・粟屋勝久・逸見昌経・山県秀政・内藤・熊谷等の若狭武田氏及び旧臣)が他国への出兵時に長秀の指揮下として軍事編制に加えられた。更に軍事の他に若狭の治安維持や流通統制などの一国単位の取りまとめについても長秀が担っていた。
なお、大飯郡は逸見昌経の死によって、溝口秀勝が長秀家臣から信長直臣に取り立てられ、独立した知行を受けた。本能寺の変に際して若狭では武田元明が明智方について没落したのに対し、粟屋・熊谷・山県・寺西の与力各氏は長秀の支配下に入り、家臣となった[4]。

本能寺の変後
天正10年(1582年)6月、三好康長・蜂屋頼隆と共に信孝の四国派遣軍(長宗我部征討軍)の副将を命じられる。また、上洛中の徳川家康が大阪方面に向かうにあたり、案内役の長谷川秀一から引き継ぐ形で津田信澄と共に接待役を信長から命じられていた。しかし、出陣直前に本能寺の変が起こると、長秀は信孝を補佐し、逆臣・明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を共謀とみなして殺害[5]。ともに羽柴秀吉の軍に参戦して山崎の戦いで光秀を討った。
変に際して大坂で四国出陣の準備中だった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にいたが、信孝と共に岸和田で蜂屋頼隆の接待を受けており、住吉に駐軍していた四国派遣軍とは別行動をとっていた。このため、大将不在の時に本能寺の変の報せが届いたことで四国派遣軍は混乱のうちに四散し、信孝・長秀の動員できる兵力が激減したため、大規模な軍事行動に移ることができなかった[6]。長秀と信孝はやむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つ形となり、山崎の戦いにおける名目上の大将こそ信孝としたものの、もはやその後の局面は秀吉の主導にまかせるほか無かった。また、本能寺の変の直後には長秀の佐和山城は明智方についた荒木氏綱父子に入城されてしまったが、山崎の戦いの後に回復した[7]。
清洲会議で長秀は池田恒興と共に秀吉が信長の後継者に推す信長の嫡孫三法師を支持。結果として、諸将が秀吉の織田家の事業継続を認める形となった。秀吉と勝家とが天下を争った一戦である天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、戦後に若狭に加え越前(敦賀郡・南条郡の一部・大野郡の一部を除く)及び加賀二郡(うち一郡は溝口秀勝が領する)を与えられ、約123万石の有数の大々名となった。
天正13年(1585年)4月16日、胃癌のために死去した。享年51。跡目は嫡男の長重が継いだ。
死因には異説もあり、一説では織田氏をないがしろにする秀吉の振舞いを見て、信長の恩義に応えることができなかったことを悔いて割腹自殺したという説もあり、その際に自ら取り出した内臓、それも病巣の部分を秀吉に送りつけたとも言われている。
また、『秀吉譜』によれば、長秀は平静「積聚」に苦しんでおり、苦痛に勝てず自刃した。火葬の後、灰の中に未だ焦げ尽くさない積聚が出てきた。拳ぐらいの大きさで、形は石亀のよう、くちばしは尖って曲がっていて鳥のようで、刀の痕が背にあった。秀吉が見て言うには、「これは奇な物だ。医家にあるべき物だろう」と、竹田法印に賜ったという。後年、これを読んだ平戸藩主松浦静山は、この物を見たいと思っていると、寛政6年(1793年)初春、当代の竹田法印の門人で松浦邸に出入りしていた者を通じて、借りることができた。すると、内箱の銘は『秀吉譜』と相違があり、それによれば久しく腹中の病「積虫」を患っていた長秀は、「なんで積虫のために殺されようか」と、短刀を腹に指し、虫を得て死去した。しかし、その虫は死んでおらず、形はすっぽんに似て歩いた。秀吉が侍医に命じて薬を投じたが、日を経てもなお死ななかった。竹田法印定加に命じて方法を考えさせ、法印がひと匙の薬を与えると、ようやく死んだ。秀吉が功を賞してその虫を賜り、代々伝える家宝となったとあった。外箱の銘には、後の世にそれが失われることを恐れ、高祖父竹田法印定堅がその形を模した物を拵えて共に今あると書かれていた(内箱・外箱の銘は、天明7年(1787年)に竹田公豊が書いたものであった)。しかし、静山が借りたときには、本物は別の箱に収められて密封されていたため持って来なかったというので、年月を経て朽ちて壊れてしまい、人に見せることができなくなってしまったのだろうと静山は推測し、模型の模写を遺している[8]。



ー 人物 -

長秀は信長の養女(信長の兄・織田信広の娘で姪)を妻に迎え、嫡男の長重も信長の五女を娶っている。さらに、長秀は信長から「長」の字の偏諱を受け、親しい主従関係であった。2代に渡って信長の姻戚となった例は、他の家臣には一切無いところを見てもわかるように、長秀は信長から「長秀は友であり、兄弟である」と呼ばれるという逸話が残るほど、厚く信頼されていたことがうかがえる。
織田四天王、織田五大将の1人であり、柴田勝家と並ぶ猛将としても知られ、その武者振りから鬼五郎左と称される。
織田家中では「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評があった。木綿(羽柴秀吉)は華美ではないが重宝であるのに対し、米五郎左は長秀を評したもので、非常に器用でどのような任務でもこなし、米のように、上にとっても下にとっても毎日の生活上欠くことのできない存在であるというような意味である[9]。
方面軍司令の地位こそ得られなかったが安土城の普請奉行などの畿内の行政の仕事をそつなくこなし、各方面の援軍として補給路の確保や現地の戦後処理において活躍をするなど行政と軍事両面で米五郎左の名に恥じない働きを続け、信長の信頼も変わらなかった。
清洲会議でも織田家の今後を決める四宿老の1人として参加しているが、この頃の長秀は決して秀吉と対等な立場ではなく、その勢力差は歴然としていた。それを裏付けるように、山崎の戦い後に毛利輝元が秀吉の1家臣である蜂須賀正勝と、立場上は織田家の重臣である長秀に送った戦勝祝いは贈答品の内容から、付けられた書状の中身まで一言一句同じもので、他大名からも「秀吉の家臣」という認識があったようである(蜂須賀文書、毛利家四代実録考証)。
ある時、信長が家臣達の官位を上奏し、羽柴秀吉が筑前守、明智光秀が九州の名族である惟任(これとう)の姓を与えられた。この際、長秀にも同じく九州の名門である惟住(これずみ)の姓が与えられた。しかし、長秀はこれを一度「拙者は、生涯、五郎左のままで結構」と断っている。


以上、Wikiより。



丹羽長秀