南部信直 (なんぶ のぶなお) | げむおた街道をゆく

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南部 信直(なんぶ のぶなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての陸奥国の武将、戦国大名。南部氏第26代当主で中興の祖といわれる。



ー 生涯 -

晴政後嗣とその後の確執
天文15年(1546年)3月1日、南部家の第22代当主・南部政康の次男・石川高信の庶長子として岩手郡一方井で生まれる。
永禄8年(1565年)、従兄である南部氏第24代当主・南部晴政に男子が無かったため、その長女の婿となり養嗣子として三戸城に迎えられた。
永禄9年(1566年)と永禄11年(1568年)、鹿角郡に侵入した安東愛季軍を撃退し武名を挙げる。
元亀元年(1570年)、晴政に実子・南部晴継が誕生すると次第に晴政から疎まれるようになる。
元亀2年(1571年)5月(天正9年(1581年)説もある)、南部一族の大浦為信に石川城を攻められて実父・石川高信が自害する(生き延びたとする説もある)。これは石川家を弱体化させておきたい晴政が、石川家の津軽地方をかすめ取るよう大浦為信を密に唆したとの説もある。なお南部氏側資料では、石川高信は天正9年(1581年)に病死し大浦為信に攻められていないが、南部氏側の作意を示す証拠が存在する。
天正4年(1576年)、正室(晴政の長女)が早世すると、本人も身の危険を感じていたのか晴政の養嗣子の座を辞退し田子城に引き籠もるが、刺客の脅威から逃れるため北信愛の剣吉城や根城南部氏当主・八戸政栄の根城などに身を隠す。晴政は信直への不信を抱き続け、南部家内は晴政ならび一族内の有力勢力・九戸氏の連衡と、信直を盟主とする南長義、北信愛の連合の間で対立していく。

南部宗家家督相続
天正10年(1582年)、南部晴政が死んで晴継が第25代当主を継承するが同年、晴継は謎の暴漢集団によって暗殺される。これには信直の暗殺説も囁かれている。更に近年では信直によって内戦が引き起こされた結果、晴政親子が攻め滅ぼされたという説も浮上しているが、真偽のほどは不明である。なお南部氏側資料では、晴政没後に騒動は発生しておらず、晴継も疱瘡で死んだことになっている。
急遽南部一族や重臣が一堂に会し大評定が行われた。南部晴継の後継者としては、九戸氏当主・九戸政実の弟でかつ晴政の二女が嫁いだ九戸実親を推す意見もあったが、北信愛が事前に八戸政栄を調略し、結局は信愛や南長義から支持された信直が、南部氏第26代当主を継承することとなった[1]。このため九戸政実は遺恨を抱き南部家中は不穏な状態であった。
これら南部宗家と一族間の内部抗争、ならび南部領内に度々侵入する外敵へ対処せざるを得なかったため、その間も大浦為信に津軽地方は切り取られていくのだが、南部氏側は有効な討伐を行うことができなかった。

豊臣政権下
天正14年(1586年)(天正16年(1588年)説もある)、高水寺斯波氏の当主・斯波詮直を滅ぼして勢力を拡大した。
天正15年(1587年)、北信愛を名代にして加賀国の前田利家に対し、豊臣政権に臣従する意思を示した[1]。
天正18年(1590年)1月津軽へ兵を進める。大浦為信は密に上洛するため既に津軽を離れていたと思われるが、大浦側の抵抗が固くまた真冬でもあり南部軍は苦戦を強いられ、目的を果たせぬまま小田原参陣のため撤退した。八戸政栄に三戸城代を委ね、政栄の子・八戸直栄を随伴し兵1,000を率いて、同年4月豊臣秀吉の小田原征伐に参陣、そのまま従軍し奥州仕置の軍を進める秀吉から宇都宮において、7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、紫波郡、そして遠野保か?)についての覚書の朱印状を得る[2]。 しかし大浦(津軽)為信に津軽地方を押領されたことの訴えは、秀吉が小田原途上の沼津にて、南部氏の小田原参陣よりも早い3月に、津軽為信と謁見し既に津軽氏へ所領安堵されており、却下された。同年7月、秀吉の奥州遠征の際には浅野長政と共に先鋒を務めた[1]。
奥羽仕置後に葛西・大崎一揆や和賀・稗貫一揆[3]、天正19年(1591年)に九戸政実の乱が起きると、豊臣秀次を総大将とした秀吉の援軍を得てこれを鎮圧し[1]、政実ら謀反人を処刑した。九戸氏討伐直後に信直は、討伐軍に加わっていた津軽為信を悪逆であると小田原参陣時に続いて言い募り、秀吉の奉行である浅野長政に実父・石川高信の敵討の許しを願い出る。長政がこれを拒否すると、今度は蒲生氏郷を介して長政に敵討を願い出てきたので、長政は再び拒否するとともに不測の事態を避けるため、津軽為信に即刻領地へ帰るよう促したとされる。
秀吉の命で九戸城を蒲生氏郷が改修し、信直は三戸城から居城をここに移し福岡城と改名した。また失領している津軽3ヶ郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)の代替地として和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増され、9ヶ郡10万石の大名と認められて[1]、11月に嫡子・南部利直と共に上洛して秀吉に謝している[1]。
文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵では、秀吉に従って1,000余名を率いて肥前名護屋城に参陣したが、朝鮮に渡海せずに翌年に帰国を許された[1]。

最期
肥前国より帰国後は、盛岡に居城を定め、築城や諸城の破却に着手するなど[4]、領内の基盤固めに専念した。九戸の乱後の仕置によって、南部は伊達政宗と領地を隣接することとなり、盛岡への本城の移転は狡猾な野心家である政宗の侵略に対抗する為の防備であったという[5]。慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康に接近する。同年、盛岡城の築城を開始するが、その完成を見ず、慶長4年(1599年)10月5日、福岡城(九戸城)で病死した[4]。享年54[4]。法名は「常往院殿前光録大夫江山心公大居士」。墓所は青森県三戸郡南部町の三光院。信直と後室(泉山古康娘)夫妻の墓が現存する。
晩年は中風を煩っており、秀吉への拝謁や朝鮮出兵の従軍の為に西方へ行くのも苦労していた。死の直前、長女・千代(八戸直栄室)に向けて書かれた手紙では「大事ない、海藻が食べたくなったので、ワカメや昆布を確保して欲しい」と言っていたが、その直後の死であった。後を長男の利直が継いだ。


以上、Wikiより。



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