成富 茂安(なりどみ しげやす)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。龍造寺氏次いで鍋島氏の家臣。
ー 生涯 -
幼年期
永禄3年(1560年)、龍造寺氏の家臣である成富信種(のぶたね、「信」の字は主君・龍造寺隆信から偏諱を与えられたものであろう)の次男として、現在の佐賀県佐賀市鍋島町増田に生まれる。
元亀元年(1570年)、今山の戦いの際にはまだ12歳であったため、出陣の許可が出なかった。それに納得がいかなかったので、誰にも見つからないように独断で戦場に赴き、物見を行ったという。この行いが主君・隆信の目に留まり、それ以来小姓として側近くに仕えるようになる。元服すると隆信より一字を賜り「信安」と名乗った[1]。
天正4年(1576年)、隆信が肥前有馬氏と戦うべく藤津へ進軍した[2]際に、父と共に同行し初陣を迎える[1]。
天正5年(1577年)、幼い頃から大人でさえも手のつけられない暴れ者であり、この頃も村里を遊行し博打に興じるなど素行不良が改まらず、この年に籾蔵二つを博打の形に失うなどした[1]。諫めても改まらない素行に、成富一門は信安を殺すべきであると信種に相談する。しかし、信種がもう少し様子を見るよう一門を説き、素行の改まらない時は自らの手で殺すと述べた[1]。信安はそれにより改心し、その後は勉学や武芸に励むようになる。
天正7年(1579年)、隆信にその勇猛果敢な戦いぶりを認められ、「一日で十度の武功を立てた」ということにちなんで、十右衛門の名を与えられる。
主家の若き重臣
天正12年(1584年)、沖田畷の戦いで隆信が戦死すると、その跡継ぎである龍造寺政家に引き続き仕えることとなる。やがて信安から「賢種」(ともたね)[1]に改名するのだが、これは政家が「鎮賢」(しげとも)と名乗っていた頃に「賢」の字を与えられて名乗ったものである[1]。
天正15年(1587年)、九州征伐の際には龍造寺軍に属して出陣する。その戦いぶりから豊臣秀吉をはじめとする多くの武将から一目置かれるようになる。同年、天草の戦いに出陣し、加藤清正、小西行長を援護した功により、清正から甲冑を賜る。
その後は、豊臣氏との外交を担うなど、次第に家中で重きを成す重臣として頭角を現すようになる。
文禄元年(1592年)の文禄の役、慶長2年(1597年)の慶長の役では、龍造寺軍の先鋒を務める。この頃から龍造寺氏筆頭家老の鍋島直茂に仕えるようになる。諱(名前)は、初名の信安から賢種を経て、茂種[1]、そして茂安と名乗ることとなるが、これは直茂から「茂」の字を与えられて名乗ったものである[1]。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には、伏見城の戦い、安濃津城の戦いに出陣する。
その後、鍋島直茂・勝茂親子が西軍から東軍に寝返ったのに従い、筑後国柳川城、筑後国久留米城を攻め落とす。この時、直茂に命じられて柳川城主である立花宗茂に降伏を勧めるために折衝役を務めた。
家老就任
関ヶ原の戦いの後、家老に任ぜられ、知行高を4000石に加増された。
慶長8年(1603年)、武蔵国江戸に幕府が開府されると、江戸の町の修復や水路の整備を行う。またこの頃、山城国二条城、駿河国駿府城、尾張国名古屋城、肥後国熊本城などの築城にも参加、この経験を肥前国佐賀城の修復に生かした。
慶長19年(1614年)から、大坂の役に出陣した。
慶長15年(1610年)から没するまで、水害の防止、新田開発、筑後川の堤防工事、灌漑事業、上水道の建設など、本格的な内政事業を行っている。茂安の手がけた事績は、細かい物も入れると100ヶ所を超えるともいわれ、300年以上たった現在でも稼働しているものもある。民衆や百姓の要望に耳を貸す姿勢は、肥前国佐賀藩の武士道の教書でもある『葉隠』に紹介されており、影響を与えた。
寛永11年(1634年)、75歳で死去。家臣7人が殉死したという。墓所は佐賀市田代の本行寺。
死後
茂安の内政手腕は明治時代になって、明治天皇にも大いに賞賛されることになり、従四位を追贈されることとなった。また、肥前国佐賀藩が明治時代まで続く基礎を作り上げた功労者とも言える。
また、みやき町の白石神社には水の神として祭られている。子孫に陸軍歩兵学校教官で、愛新覚羅溥傑の上官であった成富政一陸軍大佐(養子・安利の子孫)がいる。
ー 逸話 -
肥後国の領主になった加藤清正は、その当時2,000石の侍大将だった茂安を1万石で召抱えようとしたが、茂安は「たとえ肥後一国を賜るとも応じがたく候」と応え断った。清正はその忠義に感涙したといわれる。
以上、Wikiより。