長野業盛 (ながの なりもり) | げむおた街道をゆく

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長野 業盛/氏業(ながの なりもり/うじなり、1544年(天文13年)- 1566年11月10日(永禄9年9月29日))は、戦国時代の武将。上野長野氏。長野業正の子、母は保戸田氏。幼名は松代。通称・新五郎、左衛門大夫、左京亮、右京進、信濃守、弾正忠。子に極楽院鎮良。系譜類には「業盛」の名で伝えられているが、「氏業」の名で伝えられる古文書もある。



ー 経歴 -
河越夜戦の時に兄吉業は討死しており、1561年(永禄4年)、父の死により14歳で家督を継ぐ。父に劣らず、武勇に優れていたと言われる。しかし武田軍を何度も撃退した業正の死は、箕輪衆にとっては大きな痛手であった。父の死後一度は撃退するも1566年(永禄9年)、武田信玄が2万の大軍を率いて攻め込む。業盛は居城・箕輪城に拠って箕輪衆を率いて懸命に抗戦したが、衆寡敵せず敗れて9月29日、本丸の北側にある御前曲輪の持仏堂で業正の位牌を拝み、一族郎党と供に自害した。享年23(長年寺所蔵「長野氏系図」)。遺骸は哀れに思った僧法如らが、高崎市(旧群馬町)井出、大円寺の墓地に葬ったといわれている。
辞世は「春風に梅も桜も散り果てて名のみぞ残る箕輪の山里」
業盛の子・亀寿丸(2歳)は、家臣に抱かれて落ち延びて、城の南1里半にある寺・和田山極楽院に匿われたという。のちに出家して鎮良と名乗り、極楽院2代目の院主となった。落城時に同行した家臣の姪を妻として5子があったという。
また業盛の弟・業親の子という伝蔵(業実)は、武田氏滅亡後に徳川四天王のひとりで箕輪を領した井伊直政の家臣となって4000石を有し、彦根藩の次席家老を務めた(『新編高崎市史』)。幕末の大老・井伊直弼の師とされる長野主膳は業盛の子孫といわれるが定かではない。
弟の長野正宣は、その後に武田信玄に仕え、53貫文の地を拝領したという。子の久左衛門正信は、上野国三寺郷に住し、三寺姓を名乗った。


以上、Wikiより。



長野業盛