中坊秀祐 (なかのぼう ひですけ) | げむおた街道をゆく

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中坊 秀祐(なかのぼう ひですけ、天文20年(1551年) - 慶長14年2月29日(1609年4月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。中坊盛祐の次子。別名に秀行、秀裕。従五位下、飛騨守。子に秀政。



ー 概要 -
中坊氏は菅原道真の後裔柳生永珍の弟が山城国笠置寺の宗徒となって中坊氏を称したことに始まる。一時、奈良氏と称したが、秀祐の曽祖父秀友が中坊氏と称した。また、藤原北家の流れを組む系譜も残されている(『寛政重修諸家譜』)。
初め、松永久秀に仕えて被官として度々多聞院英俊を訪問していたことが『多聞院日記』に遺されている。次いで豊臣秀長、豊臣秀保に仕え、大和吉野郡で3500石の知行を与えられた。後に筒井定次に仕えたが定次から寵愛され、それをいいことに次第に専横の振る舞いが目立つようになったという。さらに島清興と常に対立し、遂には定次に対して清興を讒言し、筒井氏から追放に追い込んだといわれている(筒井騒動)。
慶長13年(1608年)6月、駿府城の徳川家康に対して定次の不行状を訴えたが、これが原因で定次は改易に追い込まれた。寵臣である秀祐がこのような訴訟を行なった理由は家康との裏取引があったためといわれており、筒井氏改易後に幕臣として取り立てられ、奈良奉行に任じられている。慶長14年(1609年)2月29日、伏見で死去。恨みを抱いたかつての同僚山中氏に暗殺されたともいう。[1]
死後、家督は嫡子秀政が継いだ。


以上、Wikiより。



中坊秀祐