戸田勝成 (とだ かつしげ) | げむおた街道をゆく

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戸田 勝成(とだ かつしげ、生年不詳 - 慶長5年9月15日(1600年10月21日))は、戦国時代の武将である。戸田勝隆の弟。半左衛門。通称:武蔵守。名は重政・勝重ともいう。



ー 略歴 -
前歴不詳。当初は丹羽長秀・長重父子に仕えていて、丹羽家に内紛があり、それを機に豊臣秀吉の家臣となったとされるが、兄勝隆同様に古参の直臣で、秀吉の家人であったという説もある[1]。
越前国足羽郡安居城主に封ぜられ1万石を領した。秀吉の九州征伐、小田原征伐と歴戦し、朝鮮出兵の折は文禄の役において肥前名護屋に駐屯した。また、伏見城の普請を命ぜられ、その功にて後に1万石を増封された。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて石田三成に共鳴して西軍方につき、北国口を守備していたが、東軍が迫るとともに美濃方面へと陣を移した。本戦においては、大谷吉継隊に属して奮戦したが、松尾山に陣を張る小早川秀秋に続く脇坂安治・朽木元綱・赤座直保・小川祐忠ら四隊の寝返りにあい壊滅、勝成も織田有楽斎長男の織田長孝の部隊に捕捉され、応戦するも長孝の槍を頭部に受けて討たれた。この時、嫡男内記も同じく討死している。勝成は諸大名と広く親交を深め、東軍の将の中にその死を悼んで涙を流したものが多かった。優れた人物として伝わっており、「謀才俊雄の英士」と称されたという[要出典]。


以上、Wikiより。



戸田勝成