筒井定慶 (つつい じょうけい) | げむおた街道をゆく

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筒井 定慶(つつい じょうけい、1556年(弘治2年)? - 1615年(慶長20年)?)は戦国時代から江戸時代にかけての大名、武将。大和国出身。(つついさだよし)とも読む。



ー 生没年 -
生年は知られないが、没年については1615年(慶長20年)とするのが一般的である。
1548年(天文17年)生まれとされる筒井順慶より、8歳下だったとする伝承があり、それにしたがえば1556年(弘治2年)の生まれとなる。
大坂夏の陣にて敗北した責任を負って自害した、とする説にしたがえば没年は慶長20年となるが、自害と称して隠棲したとの伝承もあり、地元福住では1621年(元和7年)没の伝承もあってはっきりしない。古老の話では「大坂の戦いの後はひっそり暮らした」とあって生存伝承も根強い。



ー 生涯 -
筒井氏から福住氏に入った福住順弘の次男正次として生まれた。母は伯父にあたる筒井順昭の次女。兄の順元は福住本家を継いだらしいが、消息が不明である。弟に慶之および順斎がいるが、この二人は同一人物かもしれず、慶之が後に順斎を名乗った可能性がある。
福住氏においては主殿助を名乗り、興福寺勧学院に学んだと伝わる。定慶の名は興福寺関係者によく見られるので、もとは僧侶としての号であったかもしれない。のち筒井氏内衆の一員となり、おそらく元亀元年頃から戦場にも出陣したらしい。東山内衆は殆どが福住氏の与力であった。のちに従兄の筒井順慶の養子となって筒井主殿助を名乗る。この時は弟の慶之も同様に養子になったとされる。慈明寺順国(福住順弘の弟)の子定次が順慶の養子となるとこれに後継者の位置を譲った。
筒井順慶の没後は豊臣秀長に仕えたが、 秀長が病で死去し、その子の秀保も急死し、大和羽柴家が断絶した後は徳川家康についた。筒井順慶の死後に筒井家を継いでいた従兄の筒井定次が慶長13年(1608年)に改易となると、家康の協力もあり筒井家を相続、大和郡山城1万石を領し、名を筒井定慶に改めた。
慶長20年(1615年)4月には、大坂夏の陣が勃発。豊臣方からこちらに付くようにとの誘いがあったが、これを断った。やがて豊臣方の大野治房軍が来襲、大和郡山城を包囲し城下町に放火した(郡山城の戦い)。大野勢が2,000余だったのに対し定慶の手元には与力36騎があるのみで、定慶は敵わずと見て城を放棄、福住に落ち延びた。のちに逃亡を恥じて切腹したと伝わるが、自害と称して福住村に逼塞したとも伝えられる。[1]辞世の句は「世の人のくちはに懸る露の身の 消えては何の咎もあらじな」。大坂夏の陣での不自然なほどの敗退ぶりは、豊臣方の出方を見るため、家康の指示によってあらかじめ仕組まれた作戦であったとする説がある。伝承では、定慶かその子が隠棲し、その後、尾張国に行ったと言われるが、確証は無い。
定慶の死(または逼塞隠棲)により、大名としての筒井氏は断絶した。だが弟・慶之(順斎)の子孫が1,000石の旗本となった。幕末に日露和親条約の交渉を行った筒井政憲はその末裔であるという(養子のため直接の血の繋がりは無い)。筒井順慶の養子については諸説があって一定せず、福住氏の系図も混乱して実態がよく分からない。


以上、Wikiより。



筒井定慶