伊達成実 (だて しげざね) | げむおた街道をゆく

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伊達 成実(だて しげざね)は、戦国時代後期から江戸時代前期の武将。仙台藩初代藩主・伊達政宗の重臣で、仙台藩一門第二席・亘理伊達氏の初代当主。父は伊達実元、母は実元の兄・伊達晴宗の娘。明治維新後、家臣と共に胆振国有珠郡に移住して現在の伊達市の礎を築いた伊達邦成は、亘理伊達氏第14代当主である。



ー 生涯 -

青年期まで
永禄11年(1568年)、信夫郡大森城主・伊達実元の嫡男として生まれる。幼少の頃には、時宗の僧・了山和尚[2](伊達郡粟野村の専念寺住職)を師として学問を修めた。天正7年(1579年)、大森城にて元服(烏帽子親は伊達輝宗)。天正11年(1583年)、家督を継いで大森城主となり[3]、伊達領南方の抑えを担う。
天正13年(1585年)の人取橋の戦いでは、伊達勢が潰走する中にあって奮戦して政宗を逃がす。天正14年(1586年)には大森城から二本松城主へと移され、旧領の信夫・伊達両郡に換えて安達郡33か村(およそ38,000石)の所領を与えられた[3]。天正16年(1588年)の郡山合戦では、寡兵で蘆名義広の攻勢をしのぐ一方で大内定綱を調略して帰参させ、天正17年(1589年)の摺上原の戦いでは、突出した敵の側面を強襲して合戦序盤の劣勢を覆すなど、伊達勢の中核として活躍し数々の軍功を挙げた。
天正18年(1590年)5月、政宗が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した際には、黒川城に残って留守居役を務めた。同年10月に発生した葛西大崎一揆鎮圧にも従軍したが、一揆煽動が露見して政宗が秀吉に上洛を命じられると、国分盛重と共に蒲生氏郷への人質として名生城に入った。天正19年(1591年)、政宗の岩出山城への転封にともない、成実は二本松に代わって角田城主田手宗実の旧領である伊具郡16か村・柴田郡1か村を与えられ、居城を角田城へと移した[3]。文禄元年(1592年)には文禄の役に従軍。帰国後は政宗に従って伏見の伊達屋敷に駐在した。文禄4年(1595年)6月4日、正室・亘理御前が伏見にて死去。同年8月24日には秀次事件に関する在京家臣団一同の誓詞に石川義宗に次いで2番目に署名している。

出奔
ところがその後、伏見に居た成実は突如として伊達家を出奔し、角田城は政宗の命を受けた岩出山城留守居役の屋代景頼によって接収され(成実の家臣・白根沢重綱らの内報を受けた景頼が角田城を急襲したともいわれる)、この際に抵抗した成実の家臣・羽田実景ら30人余が討死し、成実の家臣団は解体された。なお、成実の妻子が角田城接収にあたり、景頼によって殺害されたというのは全くの誤りである。上記の通り、成実の正室・亘理御前は既に他界しており、この時点で他に妻子が存在したことを示す史料も存在しない。
ただ、この事件については不明な点があまりにも多い。まず出奔の日付自体に諸説(文禄4年(1595年)秋から慶長3年(1598年)まで)があり、出奔先も高野山・相模国糟谷(現在の神奈川県伊勢原市)の両説があり、出奔の理由についても、家中での席次を石川氏に次ぐ第二位とされた上に禄高も少なくされたことへの不満が原因であるとする説、秀次事件への政宗の連座を避けるために嫌疑の内容を自らが被って隠遁したとする説などがある。また軍記物においては、秘密工作実行のために政宗の命を受けて出奔したと描くようなものもある(『蒲生軍記』)。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、成実は上杉景勝から禄高5万石で家臣となるよう誘われたが、「本来ならば家臣筋の家に仕えるつもりはない」としてこれを拒絶した[4]。また出奔中に大久保忠隣を介して徳川家康からも誘いを受けたが、政宗の奉公構により破談になったという。同年秋、伊達政景・片倉景綱らの説得によって帰参し、7月の白石城攻めにも石川昭光の軍に属して参加したといわれる。

亘理領主として
慶長7年12月30日(1603年2月10日)、白石城に移った片倉景綱に代わって亘理城(亘理要害)に入り、亘理郡のうち23か村、611貫356文(6,113石)を拝領した。
復帰後の成実は、慶長11年(1606年)の政宗の娘・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝の婚礼の際の使者や、慶長19年から20年(1614~15年)にかけての大坂の役参陣、元和8年(1622年)の最上氏改易にともなう野辺沢城接収など数々の大役を担う。政宗没後、第2代藩主・忠宗の下でも家中の長老として重きをなし、寛永15年(1638年)、前年に藩内で発生した洪水への対策費用として幕府から銀5,000貫を拝借した件の御礼言上のため、忠宗の名代として江戸に赴いた。この時饗応の席において奥羽での軍談を所望された成実は、仙道人取橋の合戦を物語り、御簾を隔てて聞いていた将軍・徳川家光に感銘を与えたという。
こうした対外的役割を果たす一方で、成実は所領の開発・復興策を強力に推し進めた。農政面では灌漑設備の充実を図り、12世紀に開かれた旧来の岩地蔵用水の全面的改修に加え、伊具郡東小坂の取水口(小坂堰)から亘理郡八手庭に至る鳩原用水を新設した。また、沿岸部の耕作に適さない地域を活用するため、鳥の海の周囲4か所(鳥屋崎浜・箱根田浜・長瀞浜・大畑浜)に塩田を開き、のちに宇多郡10か村[5](現:新地町域)に計2,000石を加増された際には新沼浦沿岸(今泉浜・今神浜)にも塩田を開いている。
寛永21年(1644年)に行われた寛永総検地の結果を受けての知行再編において一門の所領の上限は2,000貫(20,000石)までに設定されたが、亘理領は算出された貫高が拝領時のほぼ倍額に達しており、二割出目を掛けて旧基準値の6分の5のに減らして計算してもなお2,000貫を超過したため、表面上は加増ながらも逆に知行地の一部を収公され、亘理郡のうち23か村、宇多郡のうち10か村、伊具郡のうち1か村、胆沢郡のうち2か村で計2,000貫とされた[3]。なお、成実の代に実施されたこれらの施策によって、成実没後も新田開発はますます進み、亘理伊達氏の最終的な表高は2,435貫302文(24,353石)にまで達した。
正保3年(1646年)2月9日、養嗣子・宗実に家督を譲り、同年6月4日に死去。享年79。墓所の大雄寺[1]にある伊達成実霊屋は昭和49年(1974年)に実元霊屋・実氏霊屋と共に亘理町指定文化財となり、昭和54年(1979年)には伊達成実霊屋(附:木造彩色甲冑像)が宮城県指定有形文化財となった。
明治12年(1879年)には、遺徳を慕う亘理郡民の呼びかけにより、亘理要害本丸跡に建てられた亘理神社に武早智雄命として祀られ、成実は今もなお亘理において深く敬愛されている。



ー 人物・逸話 -

兜には毛虫をかたどった前立をつけていた。これは「決して後ろに退かない」という毛虫の習性にあやかったものだという。この毛虫の前立は、現存する紺糸威五枚胴具足(伊達市所蔵)と亘理町の大雄寺木像甲冑像で確認できる。
『政宗記』によれば、人取橋の戦い後、渋川城に逗留していた折に、近習が誤って鉄砲用の火薬箱の中に火を落としてしまい、城が全焼した。この火事で成実は右手の指が全てくっついてしまうほどの大火傷を負い、生涯そのままだったという。
帰参後は政宗との関係も良好であったようで、政宗から成実への「別に用はないが、この頃逢っていないから手紙を書いた」という内容の書状も残されている(「伊達政宗文書」1800・平成『仙台市史』資料編所収)
伊達伯爵家(仙台本藩)の家扶(執事)・作並清亮は、著書『東藩史稿』(大正4年)の中で、「成実人トナリ英毅大略アリ。一時勇武無双ト号ス」と評している(巻13「伊達成実伝」)。


以上、Wikiより。



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