田丸 直昌(たまる なおまさ、天文12年(1543年) - 慶長14年(1609年))は、戦国時代・安土桃山時代の大名。田丸具忠の子。妻は蒲生賢秀の娘。名は具直、具安、具康、忠昌とも言われる。右中将[1]。
ー 出自 -
田丸氏は、伊勢国司北畠家の庶流で、第5代北畠政郷の四男顕晴が度会郡田丸城に入り、田丸氏を名乗ったことに始まる。
ー 生涯 -
織田政権時代
直昌は、父具忠の隠居に伴い家督を継承し、織田信長の伊勢侵攻後、田丸城を明け渡して織田信雄に仕えた。天正2年(1574年)7月には信雄配下の武者大将として水軍を率いて伊勢長島攻めに参戦している。天正4年(1576年)11月には、信長の意向を受けた信雄の命により、長野具藤、北畠親成ら北畠一門の主だった者を田丸城に招き寄せ、殺害している(三瀬の変)。
豊臣政権時代
本能寺の変後も信雄に属したが、信雄と秀吉が対立しはじめると、羽柴秀吉に近付き、小牧・長久手の戦いにも、蒲生氏の家臣として従軍している。戦後、蒲生氏郷の妹婿であることから、蒲生氏の与力大名となった。 氏郷が会津に転封になると、直昌は須賀川城主として3万石を与えられ、同じく与力大名で氏郷の妹婿である関一政と共に、蒲生氏を支える柱となった。その後、三春城5万2,000石に加増。
氏郷が死去するとその子の蒲生秀行に従い、秀行が宇都宮に転封されると、直昌は秀吉に仕え、信濃川中島の海津城主に封ぜられた。慶長元年(1596年)12月13日に豊臣姓を与えられ、叙任される。[2]その後、徳川家康の命で森忠政と交換人事が行われ、美濃岩村城4万石に移った。
関ヶ原の戦いとその後
関ヶ原の戦いでは、直昌は西軍に与した。小山会議で、諸将がみな東軍に味方を約束したのに対し、この後ただ独り秀吉の恩顧を思い西軍に付く事を決意したとされているが、実際には直昌は小山会議には参加しておらず、この逸話は創作であるといわれている。 直昌は大坂城の守備に就き、戦後は助命されながらも家は取り潰されて越後へ流罪となり、堀秀治に預けられた。 その後、名立寺(新潟県西頸城郡名立町)第6世の忠山泉恕に帰依して出家。慶長10年(1605年) に越後福島城下小町川のほとりに太岩寺を建立した。
慶長14年(1609年)に越後で没したという[3]。享年67歳。
直昌が建立した太岩寺は寛永年間に越後高田城下に移り、境内には直昌の墓所がある。
嫡男直茂は赦免され、再び蒲生氏に仕えた。しかし、蒲生氏が断絶すると、浪人して加賀藩に仕えた後、旗本となった。
以上、Wikiより。