武田信玄 (たけだ しんげん) | げむおた街道をゆく

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武田 信玄(たけだ しんげん) / 武田 晴信(たけだ はるのぶ)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。諱は晴信、通称は太郎(たろう)。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。大正期に従三位を贈られる。
甲斐の守護を務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期に武田氏は戦国大名化し国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて領国を拡大した。晩年、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃で病没した。
江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』[3])に描かれる伝説的な人物像が世間に広く浸透し、「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎または、龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれる。



ー 生涯 -

出生から甲斐守護継承まで
甲斐国守護・武田信虎の嫡長子として生まれる。母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。
甲斐国では上杉禅秀の乱を契機に守護武田氏の権威が失墜し有力国衆が台頭していたが、信玄の祖父にあたる信昌期には守護代跡部氏の排斥、国衆勢力を服従させ国内統一が進む。信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内訌に新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となるが、信虎は甲斐統一を達成し、永正16年(1519年)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府し、家臣団組織が整備され戦国大名としての地位が確立されていた。
信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城である(または積翠寺)。信虎は駿河国今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣福島正成率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。この際に大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生したという[4]。幼名は太郎[5]。兄の竹松が7歳で夭折した為、嫡男となる。
大永5年(1525年)父・信虎と大井夫人との間に弟・次郎(武田信繁)が生まれる。『軍鑑』によれば、父の寵愛は次郎に移り勝千代(太郎)を徐々に疎むようになったと言う。傅役は不明だが、『軍鑑』では譜代家臣板垣信方が傅役であった可能性を示している。
信虎後期には駿河今川氏との和睦が成立し、関東地方において相模国の新興大名である後北条氏と敵対していた扇谷上杉氏と結び、領国が接する甲斐都留郡において北条方との抗争を続けていた。
天文2年(1533年)に扇谷上杉家当主で武蔵国川越城主である上杉朝興の娘が晴信の正室として迎えられており、これは政略結婚であるが、晴信と彼女の仲は良かったと伝えられている。しかし、天文3年(1534年)に出産の折、難産で彼女も子も死去している[2]。
天文5年(1536年)に元服して、室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、「晴信」と改める[6]官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官される。元服後に継室として左大臣・三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。この年には駿河で今川氏輝が死去し、花倉の乱を経て今川義元が家督を継ぎ武田氏と和睦しており、この婚姻は京都の公家と緊密な今川氏の斡旋であったとされている。『軍鑑』では輿入れの記事も見られ、晴信の元服と官位も今川氏の斡旋があり勅使は三条公頼としているが、家督相続後の義元と信虎の同盟関係が不明瞭である時期的問題から疑視もされている(柴辻俊六による)。
信虎は諏訪氏や村上氏ら信濃豪族と同盟し信濃国佐久郡侵攻を進めているが、武家の初陣は元服直後に行われていることが多く、『軍鑑』によれば晴信の初陣は天文5年(1536年)11月、佐久郡海ノ口城主平賀源心攻めであるとしている。『軍鑑』に記される晴信が城を一夜にして落城させたという伝承は疑問視されているものの、時期的にはこの頃であると考えられている。
晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年(1541年)の海野平合戦にも参加しているが、『高白斎記』によれば甲府へ帰陣した同年6月には晴信や重臣の板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は武田家の第19代目の家督を相続する[7]。

信濃国を平定
信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏・扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていたが、晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行う[8]。
天文11年(1542年)6月に晴信は諏訪氏庶流である高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧している[9]。諏訪領においては同年9月には高遠頼継が武田方に対して挙兵しているが、武田方はこれを撃破して諏訪領を掌握する。
武田方はさらに天文12年(1543年)には信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。天文14年(1545年)4月、上伊奈郡の高遠城に侵攻して高遠頼継を滅ぼし、続いて6月には福与城主である藤沢頼親を追放した。父・信虎時代は対立していた後北条氏とは天文13年(1544年)に和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に大きな「貸し」を作った。それによって西方に安堵を得た北条氏康は河越城の戦いで大勝し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていく。
今川・北条との関係が安定したことで武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対する。天文16年(1547年)には関東管領勢に支援された志賀城の笠原清繁を攻め、同年8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する[10]。また、領国支配においても同年には分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定めている。
天文17年(1548年)2月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原合戦において武田軍は村上軍に敗れ、宿老の板垣信方・甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたという。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原軍を撃破した。
天文19年(1550年)7月、晴信は小笠原領に侵攻する。これに対して小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走した。こうして、中信は武田の支配下に落ちた。
勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる大敗を喫した。
しかし天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の策略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。こうして東信も武田家の支配下に入り、晴信は北信を除き信濃をほぼ平定した。

川中島の戦い
詳細は「川中島の戦い」を参照
天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎(上杉謙信)は本格的な信濃出兵を開始し、以来善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。このときは景虎方に武田軍の先鋒を布施・八幡にて撃破される。景虎は武田領内深く侵攻するも晴信は決戦を避ける。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。同年8月には景虎の支援を受けて大井信広が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。
晴信は信濃進出に際して、和睦成立後も緊張が続いていた駿河今川氏と相模北条氏の関係改善を進めており、天文23年(1554年)には嫡男義信の正室に今川義元の娘嶺松院(信玄の姪)を迎え、甲駿同盟を強化する。また娘を北条氏康の嫡男氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。今川と北条も信玄及び今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結び甲相駿三国同盟が成立する。三国同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は景虎を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能した。天文24年にも川中島において長尾景虎と対陣している[11]
弘治3年(1557年)には将軍足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている[12]。
『甲斐国志』に拠れば、永禄2年(1559年)2月に晴信は長禅寺住職の岐秀元伯を導師に出家し、「徳栄軒信玄」と号したという。文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている[13]。出家の背景には信濃をほぼ平定した時期であることや、信濃守護に補任されたことが契機であると考えられているほか[14]、永禄2年(1559年)に相模後北条氏で永禄の大飢饉を背景に当主氏康が家督を嫡男氏政に譲り徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が考えられている[15]。「信玄」の号のうち「玄」の字は「晴」と同義であるとする説や[16]、臨済宗妙心寺派の開山である関山慧玄の一字を授かったとする説[17]、唐代の僧臨済義玄から一字を取ったとする説などがある[18]。
信玄は北信侵攻を続けていたものの謙信の上洛により大きな対戦にはならなかったが、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。武田方は信玄の実弟である武田軍副将武田信繁をはじめ武田家重臣諸角虎定、足軽大将の山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したという。
第四次川中島合戦を契機に信濃侵攻は一段落し、以後は西上野出兵を開始しており、この頃から対外方針が変化しはじめる。永禄7年(1564年)にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終わっている(第5次川中島の戦い)。

外交方針の転換と今川・北条との戦い
川中島の戦いと並行して信玄は西上野侵攻を開始し、上杉旧臣である長野業正が善戦した為、捗々しい結果は得られなかった。しかし、業正が永禄4年(1561年)に死去すると、武田軍は後を継いだ長野業盛を激しく攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を領国化した[19][20]。
永禄3年(1560年)5月には桶狭間の戦いにおいて駿河で今川義元が尾張国の織田信長に敗死して当主が氏真に交代し、今川領国では三河で松平元康(徳川家康)が独立するなど動揺が見られた。信玄は義元討死の後に今川との同盟維持を確認しているが、この頃には領国を接する岐阜においても信長が斎藤氏の内訌に介入して抗争しており、信長は斎藤氏との対抗上武田との関係改善を模索し、こうした経緯から諏訪勝頼正室に信長養女が迎えられている[21]。川中島合戦・桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に伴い武田と今川の同盟関係には緊張が生じ、永禄10年(1567年)10月には武田家において嫡男義信が廃嫡される事件が発生している(義信事件)[22]。
永禄11年(1568年)12月には遠江割譲を約束した三河の徳川家康と共同で駿河侵攻[23]を開始し、薩垂山で今川軍を破り今川館を一時占拠する。信玄は駿河侵攻に際して相模北条氏康にも協調を持ちかけていたが氏康は今川方救援のため出兵し甲相同盟は解消され、北条氏は越後上杉氏との越相同盟を結び武田領国への圧力を加えた。さらに徳川氏とは遠江領有を巡り対立し、翌永禄12年5月に家康は今川氏と和睦し侵攻から離脱した。
こうした状況の中で信玄は信長・将軍足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み、同年8月には上杉氏との和睦が成立した[24]。さらに信玄は越相同盟に対抗するため常陸国佐竹氏や下総国簗田氏など北関東勢力との同盟を結び後北条領国へ圧力を加え、同年10月には小田原城包囲を行い、撤退の際には三増峠の戦いで北条勢を撃退した[25]。こうした対応策から後北条氏は上杉・武田との関係回復に方針を転じ、同年末には再び駿河侵攻を行い駿府を掌握した。
また、永禄年間に下野宇都宮氏の家臣益子勝宗と親交を深めていた。勝宗が信玄による西上野侵攻に呼応して出兵し、軍功を上げると信玄は勝宗に感状を贈っている。

遠江・三河侵攻と甲相同盟の回復
永禄11年(1568年)9月、将軍足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄やその他の大名に信長討伐の御内書を発送する。信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、元亀2年(1571年)2月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。信玄は同年5月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたが、信玄が血を吐いたため甲斐に帰還した。
元亀2年(1571年)10月3日、かねてより病に臥していた北条氏康が小田原で死去し、後を継いだ嫡男の氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い(氏政独自の方針との異説あり)、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠、北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を回復するに至った。この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃、駿河、上野西部、遠江・三河・飛騨・越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達している。

西上作戦
尾張の織田信長とは永禄年間から領国を接し外交関係がはじまっており[26]、永禄8年(1565年)には東美濃の国衆である遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田家の世子である武田勝頼に嫁がせることで友好的関係を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立しており、織田氏の同盟国である徳川氏とは三河・遠江をめぐり対立を続けていたが、武田と織田は友好的関係で推移している。
元亀2年(1571年)の織田信長による比叡山焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。天台座主の覚恕法親王(正親町天皇の弟宮)も甲斐へ亡命して、仏法の再興を信玄に懇願した。信玄は覚恕を保護し、覚恕の計らいにより権僧正という高位の僧位を元亀3年(1572年)に与えられた。また、元亀2年には甲相同盟が回復している[27]。
元亀3年(1572年)10月3日、仏法の庇護者でもある信玄は、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で甲府を進発した[28]。武田勢は諏訪から伊那郡を経て遠江に向かい、山県昌景と秋山虎繁(信友)の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は馬場信春と青崩峠から遠江に攻め行った[29]。
信玄率いる本隊は浅井・朝倉らに信長への対抗を要請し、10月13日に徳川方の諸城を1日で落とし、山県昌景軍は柿本城、井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流した。一方11月に信長の叔母のおつやの方が治める東美濃の要衝岩村城が武田軍に寝返ってきた。
これに対して、信長は信玄と義絶するが、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺の一向宗徒などと対峙していたため、家康に佐久間信盛、平手汎秀らと3000の兵を送る程度に止まった。家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦い敗退している(一言坂の戦い)。12月19日には、(武田軍は)遠江の要衝である二俣城を陥落させた(二俣城の戦い)。
劣勢に追い込まれた家康は浜松に籠城の構えを見せたが、浜松城を攻囲せず西上する武田軍の動きを見て出陣した。しかし遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と決戦し敗退している(三方ヶ原の戦い)。
しかしここで(信玄は)盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、義景はその後も動こうとしなかった。
信玄は軍勢の動きを止め刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。3月6日、岩村城に秋山虎繁を入れた。

信玄の死と遺言
信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈する(一説では、三方ヶ原の戦いの首実検のときに喀血が再発したとも)など持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、近習・一門衆の合議にては4月初旬には遂に甲斐に撤退することとなる。
4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する、享年53[30]。臨終の地点は小山田信茂宛御宿堅物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。戒名は法性院機山信玄。菩提寺は山梨県甲州市の恵林寺。
辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。
『甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。
信玄の遺言については、遺体を諏訪湖に沈めることなど事実で無いことが含まれているが(『軍鑑』によれば、重臣の協議により実行されなかったという)、三年秘匿や勝頼が嫡男信勝の後見となっている可能性も指摘され、文書上から確認される事跡もある。
信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を秘匿している。駒場の長岳寺や甲府岩窪の魔縁塚を信玄の火葬地とする伝承があり、甲府の円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたという記録がある。このことから死の直後に火葬して遺骸を保管していたということも考えられている。
天正3年(1575年)3月6日には山県昌景が使者となり高野山成慶院に日牌が建立され(「武田家御日牌帳」)葬儀は『甲陽軍鑑』品51によれば長篠の戦いの直前にあたる4月12日に恵林寺で弔いが行われており、快川紹喜が大導師を務め葬儀を行ったという(「天正玄公仏事法語」)。上野晴朗はこれを「3年喪明けの葬儀で天正4年(1576年)4月16日に本葬を行った」としている。



ー 人物 -

人物像
武田信玄の発行した文書は、信玄の花押による文書が約600点、印判を使用したものが約750点、写しのため署判不詳が100点、家臣が関与したものが50点の合計約1500点ほどが確認されている[31]。そのうち信玄自筆書状は50点前後確認できるが、20点ほどは神社宛の願文で、私的な文書は皆無で人物像・教養について伺える資料・研究は少なく、昭和初年には渡辺世祐『武田信玄の経綸と修養』 において若干論じられている。
教養面について、信玄は京から公家を招いて詩歌会・連歌会を行っており、信玄自身も数多くの歌や漢詩を残している。信玄の詩歌は『為和集』『心珠詠藻』『甲信紀行の歌』などに住職され恵林寺住職の快川紹喜や円光院住職の説三恵璨により優れたものとして賞賛されている。また、漢詩は京都大徳寺の宗佐首座により「武田信玄詩藁」として編纂している[32]。
また、信玄は実子義信の廃嫡や婚姻同盟の崩壊による子女の受難などを招いている一方で、娘の安産や病気平癒を祈願した願文を奉納しているなど、親としての一面が垣間見える事実もあることから、国主としての複雑な立場を指摘する意見もある[33]。
『甲陽軍鑑』において信玄は名君・名将として描かれ、中国三国時代蜀の諸葛孔明の人物像に仮託されており(品九)、甲陽軍鑑においてはいずれも後代の仮託と考えられているが軍学や人生訓に関する数々の名言が記されている。
ウィキクォートに武田信玄に関する引用句集があります。

『甲陽軍鑑』等における逸話
あるとき、駿河の今川義元の正室として嫁いだ姉から大量の貝殻が贈られてきた。山国甲斐で育った信玄はこれを喜び、近習に貝殻の数を調べさせた。貝殻は2畳分あった。そこで家臣らを呼んで「お前たち、この貝殻が何枚あるか当ててみい」と命じた。ある者は5000枚、ある者は1万枚と思い思いに述べた。すると信玄は「皆的違いだ。3700枚ほどだ」と教えた。そして「わしは今まで、合戦には兵力が必要だと思っていた。だが兵力は少なくともよい。必要なのは5000の兵を1万に見せることができるように、兵を思うように動かすことこそ大事である。お前たちもこのことをしかと心得よ」と述べた。それを聞いた家臣らは「末恐ろしい若君よ」と驚嘆した(甲陽軍鑑。品第6)。
武田軍の強さは、長篠の戦いで大敗した後も、信長の支配地域において「武田軍と上杉軍の強さは天下一である」と噂されるほどのものであった(大和国興福寺蓮成院記録・天正十年三月の項)。
躑躅ヶ崎館に、水洗トイレを設置している。躑躅ヶ崎館の裏から流れる水を利用した仕組みで信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと伝言ゲームのように配置された数人の家臣に知らされていき上流の者が水を流す仕組みである。信玄はここを山と言う名称で呼んでいた。家臣が「何故、厠を山と言うのでしょう?」と尋ねた所、信玄は「山には常に、草木(臭き)が絶えぬから」と機知に富んだ回答をしている。敵襲に備えた信玄の考えから、トイレはかなり広く作られており(狭いトイレだと身動きがとれなくなるので)、室内には机や硯も設置されており、ここで用を足しながら書状を書いたり作戦を考えていた。
甲陽軍鑑によると、信長から小袖が贈られた時に、信玄はそれが入れられていた漆箱の方に目をつけそれを割るなどして調べると、それは漆を何度も重ね塗りしたものでありその丁寧さから「これは織田家の誠意の表れであり、武田家に対する気持ちが本物だ」と言った事から、信長の真意はともかく細かい所にも気をつける性格だったようである。
信玄は、かなり前から病を患っていたものと思われる。甲陽軍鑑には20代の頃から度々体調を崩していることが書かれている。
信玄は自らの影武者に、実弟の信廉を起用した。
信玄は情報収集を重要視し、「三ツ者」と呼ばれる隠密組織を用いていた(甲陽軍鑑では三ツ者のほか、素破とも表現されている)。また、身寄りの無い少女達を集めて忍びの術を仕込ませ、表向きは「歩き巫女」として全国に配備し諜報活動を行わせた。このため、信玄は甲斐に居ながら日本各地の情報を知っていたことから、まるで日本中を廻っていたかのような印象を持たれ「足長坊主」と異称されたという。
上洛のとき、「甲陽軍鑑」において、次のようなことを信玄自らが述べたという記述がある。
「遠州・三河・美濃・尾張へ発向して、存命の間に天下を取つて都に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政をただしく執行はんとの、信玄の望み是なり」
信玄にとって甲斐から京都へ上洛する距離は、当時としてはかなりの遠隔地だった。実際、織田信長の美濃・尾張に較べると甲斐は後進地域であるうえ、山国でもあるために行軍も難しかった。信長が信玄に先んじて上洛した際、当時の俳諧書である犬筑波集では、次のような句が記されている。
「都より甲斐への国へは程遠し。おいそぎあれや日は武田殿」(大意:甲斐は都から遠い。お急ぎせねば日が暮れますぞ。)
信玄は上杉謙信を上杉姓で呼ばなかったが、これは甲斐守護の武田家と越後守護代の長尾家の格式の差による。長尾家が関東管領として上杉姓となると、格式が逆転したため、面白くなかった信玄は、最期まで長尾姓のままで呼び続けたという。
ルイス・フロイスの「日本史」によれば、武田氏は「彼(織田信長)がもっとも煩わされ、常に恐れていた敵の1人」だったという。
フロイスはその他、書簡(日本耶蘇会年報に所収)にいくつか信玄のことについて記している。「戦争においてはユグルタに似たる人」「彼は剃髪して坊主となり、常に坊主の服と数珠を身に付けたり。1日3回偶像を祭り、之が為 戦場に坊主600人を同伴せり。この信心の目的は、隣接諸国を奪うに在り」「彼は武力により畏怖され、部下より大に尊敬を受く。けだし小なる欠点といえども宥(ゆる)すことなく、直ちに之を殺害せしむるを以てなり」
同じ書簡には、信玄が遠江・三河に侵攻する前、信長に一書を送ったが、そこには「その名を誇示せしめんとの慢心より、その書状の上に次の如く認めたり。テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)」と署名してあり、「信長は之に対してドイロク・テンノマウオ・ノブナガ(第六天魔王信長)、と応酬せり」というやりとりがあったという。このフロイス書簡の日付は1573年4月20日(日本暦の元亀4年3月29日)だが、この後すぐ信玄は没している。フロイスはこの署名を「其意は天台宗の教の最高の家および教師信玄といふことなり」と訳し、信玄が増長して天台座主を名乗ったものと解しているが、歴代の天台座主には信玄の名はない。「天台座主沙門信玄」は「天台座主・覚恕法親王の下での修行者・信玄」と信玄が自らの敬虔な姿勢を示したもので、これに対して信長は「仏道修行を妨げる魔・信長」と皮肉で返したと読むこともできる。


以上、Wikiより。



武田信玄