滝川 辰政(たきがわ たつまさ/ときまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。通称は、七郎、内記、丹波、出雲。
ー 生涯 -
天正3年(1575年)、滝川一益の子として誕生[1][2][3]。
はじめ織田信包に仕えた。豊臣氏による小田原征伐に従軍した際[1][2][3]、北条方より信包の軍に向かって鉄砲が撃ちかけられたが、辰政が矢面に立ち弾丸は母衣に当たるだけで済み、信包より大いに賞されたという[4]。次に浅野長政に仕え、文禄・慶長の役の際には朝鮮へ渡航し武功が多かったという[3]。石田三成にも仕えた。
その後、小早川秀秋に仕え[1]、この頃に名を内記と改めた[3]。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、松尾山に陣を敷いた秀秋に従い、関ヶ原の本戦において石田三成方の大谷吉継の軍勢と戦い、笹治兵庫とともに奮戦して武功を挙げたとされる[2][3]。ところが戦後、秀秋が岡山藩55万石に加増・移封されるも、諫言する家臣に対し上意討ちなどしたため重臣が出奔するようになり、辰政も女乗物に乗って落ち延びるという計略を用いて秀秋の妨害をかわして出奔した[5]。
しばらくして、姫路藩池田氏の重臣・荒尾成久らのとりなしで、2000石をもって姫路藩主・池田輝政に仕えた[1][3]。この頃に丹波と称し、後に出雲と称した[6]。また、慶長17年(1612年)には、輝政より淡路岩屋城を辰政に預けるべき旨の内命が出されたが、翌慶長(1613年)1月、輝政が死去したため実現しなかった[3]。
2代藩主・池田利隆の下において、大坂の陣にも従軍し、神崎川一番越しなどの軍功を挙げた[1][3]。なお、利隆の弟・池田忠継が中津川(淀川の分流)を渡って深入りしたため、利隆が渡河しようとしたが、江戸幕府の軍監が強硬な態度でこれを制止した。これに対し辰政は、忠継は徳川家康の愛孫・利隆の弟にあたり、もし忠継が敗死すればこれを救わざるの罪があるため速やかに渡河すべきと弁じ、はたして利隆の軍勢が渡河すると敵兵は戦わずして敗走した。一方、軍監は敢えて渡河しなかったが、これを聞いた家康は軍監らが機を見て進軍しなかったことを責めたという[3]。大坂の陣の後、戦功によってさらに1000石を加増され、3000石の禄を食んだ[1][2]。
慶安元年(1648年)、3代藩主・池田光政より、多年の功を賞するとともに、致仕して老を楽しむべしとの命を受け、家督を子の宗次に譲って隠居[1][3]。
慶安5年(1652年)、享年78にて病死した[1]。
以上、Wikiより。