元田永孚 (もとだ ながさね) | げむおた街道をゆく

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元田 永孚(もとだ ながさね、文政元年10月1日(1818年10月30日) - 明治24年(1891年)1月22日)は、日本の武士・熊本藩士、儒学者。男爵。名は「えいふ」ともいう。幼名は大吉。通称は伝之丞、八右衛門。雅号は東野。字は子中。



ー 略歴 -
文政元年(1818年)、熊本藩士・元田三左衛門(700石(本知550石))の子として生まれる。
元田家は藩内で上士層に位置する。父・三左衛門は、永孚の幼少期には藩主小姓を勤め、のち側取次役となるなど多忙であったため、祖父の元田自泉より厳しい教育を受け、「唐詩選」「論語」などを学ぶ。永孚が11歳のとき熊本藩の藩校時習館に学び、横井小楠・下津休也と知り合いその感化を受け、実学党(横井中心の藩政改革派)の一人として活動した。しかし横井の失脚もあって一旦実学派から距離を置く。安政5年(1858年)、家督を継ぎ元田家8代目となり、京都留守居・高瀬町奉行などを歴任した。
明治維新後に藩内での意見対立から隠退し、私塾「五楽園」を開いた。明治3年(1870年)、藩政において実学党が復権したことで永孚は藩主侍読に推挙され、宣教使・参事を兼任した。明治4年(1871年)には、藩命および大久保利通の推挙によって宮内省に出仕し明治天皇の侍読となり、以後20年にわたって天皇への進講を行った。その後は侍講となりまた侍補も兼務し、明治19年(1886年)には宮中顧問官、同21年(1888年)に枢密顧問官に至った。この間『教学聖旨』(「教学大旨」及び「小学条目二件」)の起草、『幼学綱要』の編纂、『教育勅語』の起草への参加などを通じて、儒教による天皇制国家思想の形成に寄与した。そのため明治天皇からの信任が厚く、大事においてはしばしば意見を求められた。また宮中顧問官への就任後も、明治天皇から「天皇の私的顧問」であることを命じられ、正装である洋装の義務を元田だけは免除して和装での参内を許可する(1886年3月11日付、元田からの村井繁三宛書簡)など、彼の明治天皇に対する影響力は伊藤博文ら政府首脳にとっても無視できなかった。
明治24年(1891年)、病が重くなると特旨により男爵を授けられた。同年、死去。


以上、Wikiより。



元田永ふ