毛利敬親 (もうり たかちか) | げむおた街道をゆく

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毛利 敬親 / 慶親(もうり たかちか / よしちか)は、長州藩の第13代藩主(安芸毛利家25代当主)。幕末の混乱期にあって、有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで、窮乏していた長州藩を豊かにし、幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物として有名である。



ー 生涯 -

家督相続以前
文政2年(1819年)2月10日、毛利親著の長子で世襲家老家一門八家の一つである福原氏当主・福原房純の養嗣子である福原房昌(のちの毛利斉元)の長子として出生。母は側室・原田氏。同年の8月28日に父の房昌は藩主家毛利氏に戻り、9月10日に毛利斉煕の養子となって毛利教元に改名、11月11日に斉元と改名して、後に第11代藩主となる。幼名、猶之進。のちに、教元を名乗っていた父から偏諱を与えられて教明(のりあき)と名乗る。
天保7年(1836年)6月12日、敬親は萩城下の阿武川の分流橋本川川岸の南苑邸にいたとき、俗に「申歳の大水」といわれる萩開府以来の大洪水に遭遇する。南苑邸には川上から倒壊した家屋などが流れ込み、見分けがつかないほど荒廃したために、御客屋に避難した。

家督相続
洪水があって3ヶ月とたたない天保7年(1836年)9月8日に父が死去し、その後を継いで第12代藩主となった毛利斉広も江戸幕府への手続きが終わってからわずか20日足らずで死去した。
毛利治親の姻族田安家から養子縁組の話があったり、敬親より年長の斉広異母弟の毛利信順がいたが、斉広の養子となって天保8年(1837年)に家督を継いで第13代藩主となる。後に斉広の娘を正室に迎え、第12代将軍・徳川家慶の一字を与えられて初名の教明から慶親に改名(「親」の字は祖父・親著に由来する)。

藩政改革
天保9年(1838年)に萩に入り、翌年より質素倹約と貨幣流通の改正を行う。村田清風を登用して、藩政改革を断行。村田の死後は、村田とともに藩政改革を担った坪井九右衛門を登用した。天保12年(1841年)、江戸に文武修業の場である藩校有備館を建設、領内の実態調査を実施し、天保14年(1843年)には萩で練兵を行い、藩の軍事力の強化にも務めた。敬親の改革はこれだけに留まらず、嘉永2年(1849年)、藩校である明倫館の改革をも断行した。

第一次長州征伐
嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国の提督・ペリーが来航すると相模国周辺の警備に当たった。安政5年(1858年)8月、密勅を受け、「尊王」に尽力することとなった。同年、坪井九右衛門を引退させ、周布政之助らを登用。藩論として「攘夷」の意見を幕府に提出した。以後敬親は周布を重用し、藩是三大綱を決定、藩の体制強化と洋式軍制の導入する改革を開始した。
文久元年(1861年)、長井雅楽を登用し、航海遠略策により朝廷と幕府との協調策を模索するが、政局の主導権を長州藩に握られることを恐れた薩摩藩の妨害によって長井の政略は失敗した。この後、藩論は周布や桂小五郎らが主導する攘夷へと大きく方針を転換した。文久2年(1862年)7月、攘夷の実行を藩の方針とし、文久3年(1863年)4月には藩庁を海防上の理由から海沿いの萩城から山口城に移転させ(山口移鎮)、5月には外国船の打ち払いを開始、アメリカ・フランスの軍艦からの報復攻撃を受けた。同年の「八月十八日の政変」により長州藩は京を追われた。翌元治元年(1864年)6月、池田屋事件で多くの長州藩士が会津藩麾下の新選組によって殺害・捕縛されるにおよび、藩は京に出兵し、7月には禁門の変を引き起した。この長州の暴挙に対して朝廷は幕府に対し長州征討を命じ、8月には敬親の官位を剥奪した。さらに同月には英仏蘭米の4ヵ国の連合艦隊が下関に襲来し敗北する(下関戦争)。第一次長州征伐が開始されると、国司親相・益田親施・福原元僴ら3家老を切腹させ恭順し、10月に萩に謹慎した。

尊王攘夷から尊王開国、薩長同盟と倒幕
慶応元年(1865年)、松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵し、椋梨藤太ら俗論派(保守派)を打倒するクーデターを実行する(功山寺挙兵)。これにより正義派(倒幕派)政権が成立すると、高杉らが結成した奇兵隊や民間の軍事組織である長州藩諸隊を整備し、大村益次郎を登用して西洋式軍制を採用し、ゲベール銃やミニエー銃など新式兵器を配備して、戦術の転換など大規模な軍事改革を行う。慶応2年(1866年)、坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結び、同年8月の幕長戦争(第二次長州征伐)にも勝利した。慶応3年(1867年)、イギリスとの関係を構築し、10月には討幕の密勅を受けた。そして同年11月には薩摩藩らと共に官軍を組織して上京。王政復古のクーデターを成功させる。敬親は慶応4年(1868年)5月に上洛し、明治天皇に拝謁して左近衛権中将に任ぜられると山口へと帰った。

晩年と最期
明治2年(1869年)1月、敬親は薩摩藩・土佐藩・肥前藩と連署して版籍奉還を奉請した。6月には権大納言の位を得て、養嗣子の毛利元徳と共に10万石を下賜されている。6月4日に家督を元徳に譲って隠居した。明治4年(1871年)3月、山口藩庁内殿で死去。享年53。



ー 人物・逸話 -

敬親が藩主に就任した頃、長州藩は財政難に苦しんでいた。敬親はそれをよく知っていたため、木綿服を着て質素な振る舞いを見せながらお国入りをしたため、民衆に感激されたという(中原邦平の忠正公勤王事跡)[2]。
藩政改革では人材育成に尽力し、家柄や年齢にこだわらずに幕末の長州藩から高杉晋作などの優秀な人材を輩出させた。11歳年下で下級武士の息子である吉田松陰の才を評価して重用し、自ら松陰の門下となったエピソードは、松陰の秀才ぶりと同時に敬親の人柄を示すものとしても語られることが多い。敬親は松陰を「儒者の講義はありきたりの言葉ばかりが多く眠気を催させるが、松陰の話を聞いていると自然に膝を乗り出すようになる」と言ったという(玖村敏雄の「吉田松陰」)[3]。敬親の人柄は長州志士からも慕われており、彼らが維新後に敬親を顕彰して建てた石碑などが、旧長州藩内に多く現存する。
家臣の意見に対して異議を唱えることが無く、常に「うん、そうせい」と返答していたため「そうせい侯」と呼ばれ、一部に政治的には賢明な藩主ではなかったとの評価もあり、幕末の四賢侯にも数えられていない。
藩政は家臣任せだったが、重要段階では必ず自ら決断した。元治元年(1864年)9月25日の午前4時から藩の命運を賭けた会議が開かれた。このとき第1次長州征伐で幕府軍が長州に迫っており、藩内では侃侃諤々の論戦が行なわれた。昼頃、小姓が「食事が出来ました」と述べると、井上聞多が「藩の運命、ひいては国家の運命がかかっている大事な会議に食事をしている時間などないはず。早く結論を出すべき」とさえぎった。午後7時になっても結論は出なかったが、家臣の意見はほぼ出尽くしていた。敬親はこのときになって初めて口を開き、「我が藩は幕府に帰順する。左様心得よ」と述べるとその場を後にしたという(井上伯伝。忠正公勤王事跡)[3]。
山内豊範が養女の婿という関係で山内豊信と交友があった。ある時、敬親の近侍が豊信(容堂)の隠居部屋を訪れると欄干に「酔擁美人楼」という額がかかっていた。当時の大名としては珍しいくらいくだけた雰囲気に近侍は感心して敬親に話した。すると「こういう言は酒が飲みたくてもできず、美人を抱きたくても抱く余裕の無い者が好んで口にするものである。容堂はいやしくも24万石の太守で酒佳人は望み次第なのに、わざわざそんな額をかかげて人に見せるのは、自ら豪傑を装うものだ」と敬親は述べたという(『涙余集』)[3]。
慶応4年(1868年)閏4月14日、木戸孝允から版籍奉還を促された。全国の諸大名を納得させるために毛利家が率先して模範を示す必要があったためだが、敬親は了承した。木戸は感涙して退出しようとすると敬親は「待て」と呼び止め、「今は戦乱の世の中だから人々は気が荒立っている。これほどの変革を行なうとどういう事が起こるかわからないから、(木戸が)京都に行った上で、その時機を見計らってくれるように。」と注意した。木戸はそれを聞いて敬親に改めて礼を述べ、かの藩主が恐ろしく聡明であることを感じ取ったという(木戸孝允文書。忠正公勤王事跡)(中原邦平講演。忠正公勤王事跡)[3](中原邦平講演。忠正公勤王事績)[4]。
司馬遼太郎は『世に棲む日日』の中で、「敬親に世界観がなかった、といえばかれに酷だろう。かれはかれ自身独創力というものはもたなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それにうまれつきおそろしく寛大であった」。「ある意味では、かれほど賢侯であった人物はいないかもしれない。かれは愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけた」と書いている。
清水義範は『偽史日本伝』(集英社 ISBN 978-4087742664)の短編で敬親を取り上げ、「この殿様がもっと馬鹿でも、もっと利口でも、長州藩は途中でつぶれていたであろう。無能な名君、という不思議な人も歴史の中には存在するということだ。」と評している。また版籍奉還後すぐ隠居した事から、私欲や野心が無かったと評している。


以上、Wikiより。



毛利敬親