相馬義胤 (そうま よしたね) | げむおた街道をゆく

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相馬 義胤(そうま よしたね)は、日本の戦国時代から江戸時代の武将。戦国大名。陸奥相馬氏第16代当主。



ー 人物概略 -
小高城主。宇多郡・行方郡・標葉郡の領主。父・盛胤は天文の乱より後、晴宗派の伊達氏との確執が続く中、三春城(田村郡)の田村氏と和睦することによって所領の基盤を固めた。父の方策に従い幼き頃から各地を転戦。奥州の覇権を求めた伊達輝宗・政宗に近隣の諸大名・小名と合従連衡を繰り返して対抗した。
亡き曽祖父である伊達稙宗の隠居城(丸森城)やその近辺である伊具郡・宇多郡の領有権争いでは、大勢を決したため田村氏の仲介により伊達氏へ伊具郡を返還し、一時和睦が成立した。蘆名盛隆が死去し、関白に任官した豊臣秀吉の権勢が強まると、伊達氏はそれまでの洞 (武家)による支配体制を覆し、親戚である蘆名氏の領土(会津地方・中通り地方)を侵攻し始めた。その動きを警戒していた義胤は当初、中立的立場を保っていたが、人取橋の戦いを優勢に進めた岩城常隆・佐竹義重等と次第に連合軍を形成していった[1]。田村清顕の死後と豊臣政権の惣無事令の後、石川弾正を支援して再び伊達氏と戦い、田村清顕夫人(叔母)や田村梅雪斎、大越紀伊等と共に三春城占拠を画策。失敗して小田原城の北条氏政と同盟を組む伊達政宗との決戦を望んだ。政宗が田村氏を家臣に組み込み、相馬領の宇多郡北部(駒ヶ嶺 (新地町))を攻め取り、黒川城、須賀川城を陥落させて蘆名氏、二階堂氏を降したことで義胤は窮地に立たされたが、蘆名氏はすでに豊臣家に臣従していたため、怒った秀吉は上杉景勝と蘆名義広の実父・佐竹義重へ「伊達政宗討伐令」を発令。義胤は岩城氏の援軍を得て伊達氏を攻め、海道での戦況を巻き返した。しかし、会津、仙道地方では名だたる将兵が次々と伊達政宗に屈服し、岩城常隆は伊達氏と和睦。義胤は弟の隆胤を失った。ことに隆胤の進軍は政宗が小田原参陣中の出来事であったので反って相馬氏を攻めるための大義名分に利用された。政宗は相馬攻略を画策したが、まもなく義胤は小田原征伐を終えた豊臣秀吉の奥州仕置で所領を安堵され、政宗が服属させた二本松領、蘆名領、二階堂領、白川領等へは織田信長の娘婿・蒲生氏郷が封ぜられ、岩城領へは佐竹義重の三男・貞隆が封ぜられた。これは豊臣政権の都合によるもので、伊達氏の勢力伸張を抑えるとともに、伊勢国という京都に近く天下を狙える位置に領地を持ち、織田家の洞の中でも実力者であった蒲生氏郷には事実上の左遷であったが、義胤にとっては幸いであった[2]。豊臣政権下では六大将とされる佐竹義宣と親交を深め、朝鮮の役などの行動を共にした。
関ヶ原の戦いでは大坂に嫡子・三胤(蜜胤・利胤)を残し、自らは所領の守りを固め、政宗に相馬領を通過させた。義胤の娘は岩城貞隆の正室となっており、相馬、岩城、佐竹は連帯している[3]。慶長7年(1602年)、牛越城下において相馬野馬追のさなかに義胤に対し、関ヶ原で徳川方に与しなかったとして改易されたものの、蜜胤の訴訟や本多正信の説得などがあり、同年10月、嫡子をもって相馬氏による三郡の再統治を認められた。尚、上杉領には関ヶ原の戦いで東軍に属した蒲生秀行が封ぜられ、岩城領には伏見城の戦いで真先に西軍から攻められて討ち死にした徳川家老臣鳥居元忠の嫡男・忠政が封ぜられた。
大阪冬の陣には義胤の嫡男・利胤が徳川方で出陣し、大坂夏の陣へは病で倒れた利胤の変わりに急遽、義胤が向かった。



ー 人物・逸話 -
伊達政宗の初陣となった天正9年(1581年)の矢野目の戦以来、鉾矢形の陣備を好んで用い、人数を揃え自ら先頭を進み、馬首を敵中に突っ込んで戦った。
天正16年(1588年)義胤が三春城へ入り損じたとき、相馬派の田村家臣・大越紀伊守(顕光)の小舅・甲斐守が伊達派の田村月斎、刑部(橋本顕徳)の妻子を人質に取れば城を明け渡すはずと進言したが、義胤は「男のいない屋敷に押し入って女子供を人質に取るのは恥である。敵が襲ってこれば潔く切腹するまで。」と言ってこの進言を退けた。義胤の武士道精神を伝える逸話である。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのとき、政宗は相馬領を通過するが、その前日、政宗のお迎えとして片倉小十郎が現在の南相馬市鹿島区へ、七・八百人ほどの兵を引き連れて乗り入れ、宿を取っている。このとき小十郎は盛胤付家老・加藤左近と会談し、お家は大事であるので殿(盛胤・義胤父子)をよく諌めて徳川方に付くように話している。加藤左近は承諾した。
慶長7年(1602年)5月、改易を受けた義胤は三春領内大倉(田村市)一時移住することにしたが、この時三春城代であった蒲生郷成と「御入魂」の間柄になったという。(相馬藩世紀・戦国時代の相馬)
義胤が最晩年(80代)の頃に江戸城に登城した折、城内に入って下馬した時に丁度政宗が退出してきたが、政宗はすぐには輿に乗らずに暫く立って義胤を見送った。義胤はこれを見て、初対面の後、宮森城へ見舞に来た政宗が自分を嚇して試そうとしたことを思い出し、孫の虎之助に向かって「若い者は朝夕交わる仲でも、気を抜かずに用心すべきである。」と忠告したという。この逸話は大将たる者はいついかなる時も動じてはならないという教訓と親しき仲にも礼儀ありという二通りの意味で語られる場合がある。
同慶寺の住職の話や『相馬の歴史と民俗』岩崎敏夫著、「義胤朝臣御年譜一」(『相馬藩世紀』)寛永12年11月16日条によれば、その遺体は遺言により甲冑を着せ、武器を持たせ、伊達氏の勢力圏である北向きに埋葬されたという。この気迫と信念が相馬を守り、寸土をも許さなかったと言われ、岩崎氏は義胤を強いばかりでなく武士道の権化であると評している。
義胤の書状は19通ほどしか発見されていない。このため非常に多くの書状を残した筆まめな政宗に対して、冗談やからかいで筆不精の義胤と呼ばれている。


以上、Wikiより。



相馬義胤