西園寺公望・前編からの続き。
→ 西園寺公望・前編
憲政の常道
「憲政の常道」も参考
護憲三派の憲政会と政友会の対立は徐々に激化し、1925年(大正14年)4月1日に高橋是清が政友会総裁を辞任し、田中義一が総裁になるとその動きはいよいよ加速した[129]。7月1日にはついに第1次加藤高明内閣は崩壊し、加藤首相は辞表を摂政宮裕仁親王に奉呈した[129]。裕仁親王は西園寺に諮問したが、西園寺は「(今回の政変は)左程の事にあらざる」として、上京しなかった[130]。西園寺は坐漁荘に牧野内大臣と一木宮内大臣を呼び、あらためて加藤への大命降下を求めた。牧野も同意見であり、8月1日に憲政会単独の第2次加藤高明内閣が成立した[131]。
しかし翌1926年(大正15年)1月21日、帝国議会の質疑中に加藤首相が発病し、そのまま1月28日に死亡した[132]。憲政会は後継総裁として若槻禮次郎内相を選出した。西園寺は若槻を「首相の器に非ず」と見ていたが[133]、「議会中のことなり、前年原の例もありし故、此際は仕方ない」として若槻を首相に推薦した[134]。5月には西田税らが牧野内大臣らの金銭スキャンダルを書いたパンフレットをばらまく事件が起きたが、西園寺は平沼騏一郎枢密院副議長との会談で婉曲に牧野を支援する姿勢を示し、事件を終息させている[135]。
12月に大正天皇が崩御し、昭和元年となった。12月28日、践祚直後の昭和天皇は閑院宮載仁親王、首相若槻礼次郎、そして西園寺に「匡輔弼成(天皇を助ける)」事を命じる勅語を下している[136]。翌1927年(昭和2年)に第1次若槻内閣が崩壊すると、昭和天皇は牧野内大臣を通じて西園寺に下問を行った。勅使となった河井彌八侍従次長は、牧野内大臣が「憲政の常道」に従って第二党の政友会総裁である田中義一への大命降下が適当だと考えているという事を伝え、西園寺も同意見であると述べ、田中義一に大命が降下した[133][137]。
・満州某重大事件
「張作霖爆殺事件」も参照
田中は首相就任後に大規模な内務省官僚の人事異動を行い、昭和天皇の不興を買った[137]。昭和天皇は牧野内大臣に対して、田中首相に注意してよいかと質問した。牧野は西園寺を通じて田中首相に警告させる方式を考えたが、西園寺は天皇が官僚の移動にまで関与することを好ましく思っておらず、田中には軽く伝える程度にしておいた[138]。しかし結局牧野が天皇の意向を田中首相に伝え、8月30日に田中が天皇に謝罪するに至っている[138]。
昭和3年(1928年)6月4日、関東軍の参謀河本大作大佐による張作霖爆殺事件が勃発した。西園寺は7月か8月の時点で犯人は関東軍参謀であることを察知し、田中首相に対して断乎とした処罰を行うよう勧告した[139]。西園寺に影響された田中首相は12月24日、犯人は日本陸軍のものであり、犯人を厳罰に処する方針を天皇に奏上していたが[139]、閣内や陸軍の圧力に敗れ、徐々に軟化していった。昭和天皇はこの方針が不満であったが、陸軍全体の意向に反対する形の処置は後継内閣すら作れない事態を招くことになり、田中首相に何らかの責任を取らせるべきだと考えるようになった[140]。昭和4年(1929年)6月27日、田中首相が事件の最終報告を奏上することになると、昭和天皇と牧野内大臣、一木宮内大臣、鈴木貫太郎侍従長らは、田中首相を問責する意向を固め、西園寺に内々で相談した[141]。牧野は西園寺が賛成すると考えていたが、西園寺は問責の言葉が田中首相の辞任につながると反対した[141]。結局天皇と牧野らは西園寺の意見に従わず、田中首相を問責した上で、釈明のための拝謁を拒絶するという行動に出た[142]。田中首相は辞任を決意し、閣僚や政府内、軍の強硬派による牧野ら宮中グループに対する反感は強まり、昭和天皇は宮中グループに左右される弱い存在であるという認識が持たれるようになった[143]。西園寺は中立的な調停者の立場をとるために、次第に事件処理問題からは距離を取っていた[144]。事件の公表に反対し、牧野らを批判する小川平吉鉄道大臣と面会したときにも「師父」と形容される程信頼を持たれるよう対応していた[145]。
・民政党内閣期
「ロンドン海軍軍縮会議」も参照
西園寺は田中の後任として、「憲政の常道」に従い、民政党総裁の浜口雄幸を推薦した[146][147]。昭和5年(1930年)にロンドン海軍軍縮会議が開催されることになると、西園寺は条件にこだわらず条約を成立させるべきと考えており、浜口首相や牧野・一木・鈴木らの宮中グループにその意見を伝えている[148]。幣原喜重郎外相は会議前に西園寺に会おうとしたが、この頃西園寺は、孫からうつされた風邪をこじらせ、非常な高熱で伏せっていたため、会うことはできなかった[149]。西園寺は高熱でうなされながら「軍縮」「イタリー」「フランス」とうわごとを言い、目が覚めると「軍縮はどうなりましたか」と秘書の原田熊雄男爵に問いかけるほどだった。原田が条約は成立する見込みだと伝えると、「それで安心しました」と安堵を示したという[150]。病が癒えた後、ロンドン条約の批准に対して枢密院が反対の意志を示すと、西園寺は内閣によって枢密院議長と副議長を更迭してもいいと激励している[151]。結局ロンドン条約は無事批准されたが、条約に不満を持つ海軍内の強硬派や枢密院の宮中グループと民政党に対する不満はさらに募った[151]。西園寺に対しても不満を持つ者も現れたが、この時点ではまだ、強硬派にとっても調停者としての権威を保持し続けていた[151]。
11月、浜口首相が東京駅で狙撃され、病状が悪化して昭和6年(1931年)4月に総辞職すると、西園寺は民政党の後継総裁となっていた若槻を再び推薦した[152]。西園寺は政友会に人気が無く、中間内閣にも適当な人がなく、また暗殺を奨励することに成りかねないとして民政党内閣の存続を決めている[153]。この頃、西園寺邸によく出入りしていた[154]宇垣一成陸軍大将を担いだクーデター未遂事件、「三月事件」が発生した。8月に事件を知った西園寺は、参謀総長閑院宮載仁親王や秩父宮雍仁親王に話して事件の元兇である二宮治重参謀次長らを更迭しようと考えたが、西園寺に近い原田や近衛、牧野らは陸軍を刺激することを怖れ、結局報告は行われなかった[155]。
9月18日に満州事変が発生すると、西園寺は原田に対し、事件の片がつくまでは若槻首相を決して辞めさせてはならないと牧野内大臣と鈴木侍従長に伝えるよう命じた[156]。また陸軍が越境に関して奏上してきた場合には、天皇は即時に許さず、後で処罰が行えるようにしておくべきだとも伝えている[156]。しかし西園寺の意見が伝わる前に陸軍は上奏を行い、昭和天皇が陸軍に処分を下す機会を逃してしまった[157]。さらに若槻首相が陸軍に妥協的になったため、満州事変の拡大を防ぐことはできなくなってしまった[158]。若槻内閣は事変を収拾することもできず、安達謙蔵内相が政友会との「協力内閣」の成立を唱えたために民政党も混乱に陥り、12月11日に若槻内閣は総辞職した[159][160]。
12月12日、西園寺は上京し、牧野・一木・鈴木と相談し、政友会総裁の犬養毅を推薦することで一致した[161][160]。西園寺は後に「事情已むを得なかったし、また当然なこととも思っている。」と語っている[162]。こうして翌12月13日に犬養内閣が成立した。
当時の政治評論家馬場恒吾が犬養内閣の成立に当たって、西園寺が「憲政の常道を守った」と評価したように[162]、この時期の西園寺は「憲政の常道」に従って、衆議院の第2党から後継首相を推薦していた。このため吉野作造のように「まごう方なき政党内閣論者なることは明白である」と評価する者もいるが[163]、伊藤隆、升味準之輔といった研究者は、西園寺が「其時の模様にて中間内閣も己むを得ざることあるも計り難し」と語って中間内閣の可能性を常に忘れていなかったと指摘している[163]。桜内幸雄は、西園寺が衆議院だけでなく貴族院会派も憲政の内であると認識していたと指摘している[164]。憲政の常道についても西園寺は高橋是清内閣の崩壊時に「憲政の常道又は純理論等は分らぬ議論」で政権を要求する憲政会を批判している[165]。ただし伊藤之雄は、この時期の元老や内大臣が、憲政の常道論を受け入れていたことを指摘している[166]。
政党内閣の終焉
「五・一五事件」も参照
軍部は満州国を建設して事変の権益を確保し続けようとした。西園寺は上京して満州国承認を認めてはならないと犬養首相らに働きかけていたが[167]、昭和7年(1932年)5月15日、犬養首相は五・一五事件によって暗殺された[168]。陸軍は政党内閣の成立に猛反発しており、政党内閣には陸軍大臣を出さないと参謀本部第二部長永田鉄山少将が言明しているなど、内閣が成立すらできない可能性が極めて高かった[169][170]。また森恪内閣書記官長らは平沼騏一郎枢密院副議長による内閣を企図していたが、彼はファシスト的な革新派の一員であった。昭和天皇は西園寺に「ファッショに近き者は絶対に不可なり」と鈴木侍従長を通じて伝えており、西園寺も同意見であった[171][172]。西園寺は牧野内大臣ら、高橋臨時首相代理や若槻民政党総裁といった政治家、陸海軍の元帥、平沼に親しい倉富勇三郎枢密院議長とも面談した上で、5月23日に海軍大将の斎藤実元海軍大臣を推薦した[173][174]。西園寺は斎藤が政党でも強硬派でもない中間的な存在であり、「何もなさず、ただ四方に刺激を与えない」存在であることを祈っていた[175]。西園寺は「このたびは随分骨が折れた」と述懐したが[174]、平沼や陸海軍の強硬派らが持っていた、西園寺の中立性に対する信頼は大きく損なわれた[176]。この事件の後、坐漁荘には鉄筋コンクリート造りの書庫が建てられたが、万一の際の避難用であったと見られている[177]。また昭和7年(1932年)の血盟団事件では暗殺対象の一人となっている[178]。
揺らぐ権威
満州事変以降、中国大陸における日本軍の活動はいよいよ拡張的となった。西園寺はリットン調査団の報告書に批判的な新聞報道に不快感を示している[179]。西園寺は国際連盟脱退には反対であったが、内外の情勢から脱退は不可避であると考えるようになった。このため国際連盟脱退に関する元老への諮問や重臣会議の開催を行わせないようにし、せめてその権威失墜を防ごうとした[180]。昭和7年(1932年)8月から、首相推薦の仕組みを変更することが検討された。昭和8年(1933年)2月28日、最初に内大臣に下問があり、内大臣は元老に下問するよう奉答し、元老は判断によって内大臣や枢密院議長、そして首相経験者である重臣と討議するという方式が決定された[181]。
その頃牧野内大臣や一木宮内大臣に対する軍部からの攻撃は強まり、健康を害したこともあって二人は辞意を漏らすようになった[182]。昭和9年(1934年)に反西園寺派の倉富枢密院議長が引退すると、西園寺はその後任に一木を就任させ、後任の宮内大臣には湯浅倉平を就任させた[182]。倉富が後任としようとし、ゆくゆくは首相となることをねらっていた平沼を、西園寺は要職に就けるつもりはなかった[183]。斉藤内閣崩壊の原因となる帝人事件は、平沼の策動によるものであった。
5月に斉藤首相が辞意を固めると、斎藤は後継首相として岡田啓介海軍大将が適当であると西園寺に推薦した[184]。この人選には牧野内大臣や湯浅宮内大臣も同意していたが、西園寺はもうすこし頑張ってほしいと伝えた[184]。しかし7月3日、斉藤内閣は総辞職した[184]。西園寺は当時体調を崩していたが、7月4日に上京し、内大臣および重臣と協議した結果、岡田が適当であると上奏した[185]。
西園寺は中立的な立場を取ることを意識していたが、しだいに国粋派からの憎悪を買うようになっていた。青年将校によるクーデターの対象にも加えられ、新聞には西園寺に対するテロ未遂事件が取り上げられるようになった[186]。坐漁荘に派遣される警官も2名増員され、警備が強化されている[186]。一木枢密院議長が体調を崩し、岡田首相も天皇機関説問題などで窮地に立つ中、西園寺は二人を「死ぬまでやったらいいじゃないか」と激励している[187]。機関説問題では西園寺も批判の対象となり、「元老重臣の大謀叛」という怪文書がまかれ、在郷軍人会の代表が坐漁荘を訪れる程であった[187]。12月26日には牧野内大臣がとうとう辞任し、西園寺は後任に斎藤前首相を推薦した[188]。岡田首相は近衛文麿が人心一新の点から好ましいと考えていたが、西園寺は首相を経験してからがよいと考えていた[188]。
二・二六事件
「二・二六事件」も参照
昭和11年(1936年)の二・二六事件事件においては、決起将校の一部が西園寺襲撃を計画していた。対馬勝雄・竹島継夫らをはじめとする将校が、愛知県豊橋市の陸軍教導学校の生徒120人を使って坐漁荘を襲撃する予定であった[189]。しかし将校の一人が生徒を利用することに反対したため、襲撃計画は中止された[189]。
2月26日の午前6時半、秘書の中川小十郎が事件の報告に訪れた。西園寺は顔色一つ変えず、「またやりおったか、困ったものだ」とつぶやいた[190]。坐漁荘の警備には80名が増員され、側近たちは田舎に避難するよう勧めたが、西園寺は連絡が取れない場所に移っては、天皇からの下問に答えられないと拒否ししたため、静岡県警察部長官舎に移ることになった[191]。しかし暖房設備がなかったため、さらに知事公舎に移った[191]。西園寺は始終笑顔を振りまき、晩酌を楽しむなど落ち着いたものであり、東京の情勢が落ち着いたという報告を受けた2月27日には、どうせ死ぬなら坐漁荘がよいということで坐漁荘に戻ることになった[192]。しかし西園寺が信任する斎藤内大臣が殺害、鈴木侍従長が重傷を受けたことは西園寺にとって大きな打撃となった[193]。湯浅宮内大臣と一木枢密院議長は後継の内大臣として近衛文麿貴族院議長を推薦し、西園寺もこれを考慮していたが、近衛は病気と称して辞退した[194]。西園寺は湯浅宮内大臣を内大臣にする案を考えたが、天皇から勅使派遣ではなく、電話にて西園寺の上京が求められた。西園寺は当時ひどい腰痛と腹痛に悩まされており、しばらく上京を猶予してほしいと述べ、病状が安定した3月2日に上京した[195]。
西園寺は上京した直後に参内し、湯浅宮内大臣、一木枢密院議長、木戸幸一内大臣秘書官長と協議した。一木は平沼を推薦したが、西園寺は近衛が適任だと思っており、木戸もこれに同意した[196]。3月4日、西園寺は宮内省に近衛を呼んで首相就任を求めたが、近衛は病気を理由に辞退しようとした[197]。近衛の本音は「元来重臣と自分は考えが違う」ため、革新派と元老の板挟みになることを嫌ってのことであった[198]。しかし西園寺は近衛を推薦し、同日午後4時に近衛に対して組閣の大命が下った[197]。近衛は病気を理由に大命を拝辞し、西園寺らは再び後継首相の協議を行うことになった[197]。その日の夜、一木が外務大臣広田弘毅を提案し[199]、西園寺らもこれに同意した。木戸と近衛、吉田茂らが広田を説得し[200]、3月5日に広田に大命が下って3月9日に広田内閣が発足した。また湯浅宮内大臣が内大臣に、松平恒雄が宮内大臣となっている[201]。
近衛は若い頃から西園寺の側におり、西園寺も前途に期待をかけていた。しかし近衛は満州事変頃から西園寺と思想を違えて陸軍や革新派に近づいていった[198]。西園寺は近衛の事件後の動きや陸軍に同調するような言動を取るようになったことを惜しみ、「なんとか近衛を地道に導く方法はないだろうか」と考えるようになった[202]。また3月13日には一木枢密院議長が辞任したことにより、西園寺が拒み続けていた平沼が枢密院議長に就いた[203]。西園寺は「種々やってみたものだけれど、結局人民の程度しかいかないものだね。」と諦観にも似た感想を漏らしている[204]。
元老の退場
昭和12年(1937年)1月23日、広田内閣は陸相寺内寿一の辞任によって崩壊した。湯浅内大臣と松平宮内大臣は平沼枢密院議長の意見を聞いた上で即日坐漁荘に連絡を取ったが、西園寺は平沼の意見を取り入れる気はなかった[205]。西園寺が風邪をひいていたため、坐漁荘を湯浅内大臣が訪れ、協議を行った。西園寺はこの席で宇垣予備役陸軍大将が軍部を押さえられると思って推薦した[206]。しかし陸軍は宇垣の組閣に反対し、陸軍大臣を出すことを拒否した[207]。宮中も強力な手段をとって宇垣に協力することは困難であると認識し、宇垣は大命を拝辞することになった[208]。1月29日、再び湯浅内大臣が坐漁荘に派遣された。西園寺と湯浅は平沼枢密院議長を第一候補とし、第二候補として林銑十郎予備役陸軍大将を挙げた[209]。平沼が辞退したため、林が大命を受け、林内閣が成立した[209]。西園寺は宇垣組閣の失敗に落胆し、二度目に坐漁荘を訪れた湯浅に対し、「天皇に拝謁することもできず、また人も知らない」として、天皇の下問と奉答を辞退したい意向を述べた[210]。しかし湯浅内大臣や木戸宗秩寮総裁はこれを受け入れなかった[210]。
5月31日、第20回衆議院議員総選挙での敗北によって林内閣が総辞職すると、西園寺に再び下問が行われた。候補としては杉山元陸軍大臣も挙がっていたが、この際は近衛を推すことに決めた[211]。近衛内閣の外相には当初永井柳太郎が挙がっていたが、西園寺らが難色を示したために広田元首相が外相となることになった[212]。第1次近衛内閣成立以降、西園寺は「近衛内閣の評判も割合悪くないようじゃないか」と機嫌をよくしていたが[212]、7月7日に起こった盧溝橋事件によって心を痛めるようになった。西園寺は「こうちょいちょいいろんなことを支那(中国)でやると結局非常な損害を蒙る。思わぬところに国を持って行かれちゃあ困る。」「支那人(中国人)だって日本人より利口な人もおり、また支那人だけでなく外国人で日本の肚を見透かしているものもいる。」「よほど日本もしっかりやらないと、みんなから馬鹿にされることになる」と危惧していた[213]。また新聞が「断乎一蹴」「断乎一撃」などの言葉を使い、「さかんに人を殺したり、その数が多ければ多いほど褒め称える」風潮についても懸念を示していた[214]。近衛についても、大陸の戦局の見通しなどについて危惧を持っていたが、希望は捨てきれないでいた[215]。昭和13年(1938年)5月23日、広田外相の後任として宇垣の名が上がったが、西園寺は首相候補である宇垣に傷をつけてはいけないと反対している[216]。しかし近衛は宇垣を外相とし、西園寺の意向を無視している[217]。西園寺は近衛には同情していたものの「今の政府のすることは矛盾だらけ」と批判的であった[217]。10月下旬になって近衛が首相を辞任し、内大臣に移りたいという意向を示すようになると「筋が通らない」として反対し、陸軍の支持が厚い近衛が宮中に影響力を持つようになることを防ごうとした[218]。
昭和14年(1939年)1月4日、近衛内閣は総辞職した。湯浅内大臣は坐漁荘を訪れて協議したものの、「自己の責任」において平沼枢密院議長を推薦した[219]。これ以降首相の推薦は内大臣が行い、一応元老の意見も聞くという形になった[220]。西園寺はこの頃から「報告を受けるだけ」[219]、何も反応しないという状態になり、「どうも何をやっているんだか。内政も外交も自分にはもうちっとも判らない」「日本人の程度がまだまだ低い。やはり到底外国人には及ばない」と気力を無くしていた[221]。影響力もはっきり低下し、平沼内閣が辞職して後継首相を決める際に「捨て身でやってほしい」と述べ宇垣や池田成彬の名を上げたものの、結局湯浅内大臣や近衛によって阿部信行陸軍大将が候補となり、西園寺もこれに同意を与えた[222]。
昭和14年(1939年)2月以降、西園寺はたびたび体調を崩し、昭和15年(1940年)の夏には恒例となっていた御殿場の別荘への避暑も行わず、坐漁荘の居室に冷房設備を取り付けた[223]。西園寺は死期を悟り、親しい人物に形見分けとして金銭を贈った[224]。7月16日に米内内閣が崩壊し、後任に近衛が推薦される動きとなった。7月17日に西園寺のもとを内閣秘書官長が訪問して、同意が求められたが、西園寺は「この奉答だけは御免蒙りたい」として奉答を拒絶した[225]。西園寺は「今頃、人気で政治をやろうなんて、そんな時代遅れな者じゃあ駄目だね」「踏みとどまってもやるだけの決心があるか」と近衛の資質に対して疑念を持っていた[225]。第2次近衛内閣では反対し続けた日独伊三国軍事同盟が成立し、「まあ馬鹿げたことだらけで、どうしてこんなことだろうと思うほど馬鹿げている」と嘆いている[226]。
11月、西園寺は腎盂炎を発症し、それ自体は完治したものの11月24日午後9時54分に衰弱に耐えられずに死去した[227]。享年92(満90歳没)。贈従一位。西園寺は「俺は死んでも坊主や神主の世話にはならぬ」として、国葬も辞退したい意向を持っていたが[228]、結局日比谷公園で壮大な国葬が行われた[229]。数万人が参加し、同日に公開された坐漁荘にも8000人の参観者が訪れた[229]。
最後の言葉は「いったいこの国をどこへもってゆくのや」であったと伝えられる[要出典]。
ー 人物・逸話 -
パリ・コミューンの際にバリケードの構築を手伝うよう声をかけられた西園寺は「ウィ、ムッシュー(はい、閣下)」と答えた。しかし呼びかけた男は「ムッシュー」はブルジョア語だ、「シトワイヤン(市民)」と呼んでくれと返した。西園寺は即座に「ウィ、シトワイヤン」と返したという[253]。
政治家となることをすすめたのはフランス留学時代の恩師アコラスだったが、西園寺は「政治家は常に思うところをいうことはできず、時に嘘を言わねばならない」と否定的だった。するとアコラスは「日本の政治家は時に嘘をつくだけでいいのか、フランスの政治家は常に嘘をついている」と大笑いした。二人の関係は極めて親密であり、西園寺はアコラスとクレマンソーが極秘で政治的パンフレットをフランス国内に持ち込む必要があったときにはその運び屋役を務め、またアコラスの旅行の時にはその世話をしたという[254]。
伊藤博文の邸宅を尾崎行雄と訪れた際に、伊藤が席を外すと、「政治などというものは、ここの親爺のような俗物のやることだ」と吐き捨てるように言ったという[240]。
明治天皇は西園寺の首相就任を「公卿から初めて首相が出た」と言って喜んだという[19]。
参内する時以外はほとんど常に和装だった。
伊藤博文や井上馨に負けず劣らずの大変な女好きであり、花柳界では「お寺さん」として有名な通人であった。
明治2年(1869年)、フランスへの留学生に推薦してくれた大村益次郎に礼を言うため彼の旅館を訪れる直前、親友の万里小路通房が駆け込んできて長談義となり、その間に益次郎は襲撃されるという事件が起こっている。
フランスでの盲腸炎以来多病となり、たびたび大病に悩まされた。慢性的なリウマチ、糖尿病[255]も持病であった。しかし逆に体に気をつけることになり、長寿に恵まれた。
非常に美食家であり、教皇庁訪問時には接遇担当者に料理通であると賞賛されている[256]。西園寺家には高級料亭なだ万から料理人が派遣されていたが、たいてい一年と続かず、4年続いたものが珍しがられるほどであった[255]。ステーキや鮭のバター焼などが好物であったが、庶民的なサンマも好きであった[255]。北大路魯山人も「たべものにはなかなかやかましい人」「通人」という観測を行っている[257]
明治30年(1897年)、前年まで外務大臣を務めた陸奥宗光が、山縣有朋を中心とする藩閥の打倒と議会制民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが」と言って、周囲の見る目も痛わしいほどに落胆したという[要出典]。
私生活では極めて頑固で怒りやすい性格であり、家族が同じことを二度聞いてくると怒鳴り散らしたという[258]。「妻」の一人小林菊子は「叱られまいとすれば並大抵の苦労ではなく、よくできても口でほめるようなことはせず、それがあたりまえだと思っている人」と回想している[255]。
大変な読書家でもあり、近衛文麿は「漢籍についてはそこらの学者でもかなわない」と評している[259]。またフランス語・英語の書籍に関しても蔵書としており、現在は立命館大学の西園寺文庫に収められている[260]。
ただし伝統的な公家の基礎教養である和歌は余り得意ではなく、『蜻蛉集』の際に翻訳した和歌にも基本的な事実誤認が複数含まれている[22]。
ー 人物評 -
公私ともに親しかった陸奥宗光は「天下第一の高人」と評し、政略を持ち肝も据わっているが、それを露骨に振り回さず、一緒に仕事をしているとそれが次第に現れると評している[53]。
国木田独歩は若い頃は「下瀬火薬質」[261]だったが、1900年頃から優しさの分子が増え始めてきたと評している[262]。
原敬は『原敬日記』において政友会総裁時代の西園寺を「意志案外強固ならず、且つ注意粗にして往々誤あり」とその資質を批判している[263]。
孫の西園寺公一は、火のように激しい厳しい性格を包蔵しているが、表面に現れる事は滅多にないと回想している[262]。
パリ講和会議で再会した旧友クレマンソーは、「昔は過激な、愛すべき公子であったが、今はおだやかな皮肉屋となった」と回想している[25]。
以上、Wikiより。