橋本左内 (はしもと さない) | げむおた街道をゆく

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橋本 左内(はしもと さない、天保5年3月11日(1834年4月19日) - 安政6年10月7日(1859年11月1日))は、江戸時代末期(幕末)の志士、思想家、越前国福井藩藩士。号は景岳。諱は綱紀。著書に15歳の時に志を記した『啓発録』がある。



ー 生涯 -
天保5年(1834年)、橋本長綱の子として越前国に生まれる。母は小林静境の娘。弟にのち陸軍軍医総監・男爵となった橋本綱常がいる。家系は足利氏の連枝・桃井氏の後胤。祖先が桃井より母姓を冒して橋本姓に改姓して以来、橋本を称する。
嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で医者の緒方洪庵や杉田成卿に師事し、蘭方医学を学ぶ。その後、水戸藩の藤田東湖、薩摩藩の西郷吉之助、小浜藩の梅田雲浜、熊本藩の横井小楠らと交流する。やがて福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩医や藩校・明道館学監心得となる。
江戸幕府14代将軍を巡る将軍継嗣問題では、春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開し、幕政の改革を訴えた。また幕藩体制は維持した上で西欧の先進技術の導入を構想し、帝国主義と地政学の観点から日本の安全保障を弁じた先覚者でもあった。
安政6年(1859年)、大老となった井伊直弼の手により安政の大獄が始まり、春嶽が隠居謹慎を命じられると、将軍継嗣問題に介入したことを問われて頼三樹三郎と共に伝馬町牢屋敷で斬首となった。享年26。
墓は福井市の善慶寺に隣接する左内公園と、長州の吉田松陰などとともに南千住の回向院にもある。戒名は景鄂院紫陵日輝居士。明治24年(1891年)、贈正四位。



ー 同時代の評価 -
「扨又た橋本左内へは初めて対面仕候が、未だ壮年に見え候に、議論の正確、驚入り候事共にて、餘に辨晰、刀もて切られぬ迄の事に候ひて、かばかり押つめられ、迷惑に侍りし事は覚え候はず」川路聖謨
「備中殿(堀田)笑い給ひて、左衛門(川路)が申せしは、左内は二十四五ばかり、六七にはなる間敷き若者なるに、辨論、才知、天晴なる事共にて殆ど辟易せる由、越公にはよき家来を持たれたりと、殊の外賞嘆しおれり」
「東湖の後又東湖あり」武田耕雲斎
「先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推す」西郷吉之助
「左内と半面の識なきを嘆ず」吉田松陰
「彼を以て晁錯に似たり」横井小楠


以上、Wikiより。



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