諏訪 頼忠(すわ よりただ)は戦国時代から江戸時代初期の武将。
ー 生涯 -
天文11年(1542年)、諏訪氏の当主である従兄の頼重が武田信玄の諏訪侵攻で自害し、諏訪惣領家は断絶した。父・満隣が信玄に降伏し(諸説あり)、兄の頼豊が後に信玄に仕えるようになると、頼忠は諏訪大社大祝として信玄に仕えた[注釈 1]。
天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡した際に兄が戦死し、同年6月に本能寺の変で信長が死去すると、河尻秀隆の郡代弓削重蔵を駆逐し、信濃高島城(旧城)に入って諏訪氏の家督を継ぎ[1]、信濃の混乱(天正壬午の乱)に乗じて侵攻した徳川家康に対抗して[1]北条氏政に接近し再起を図ろうとした。しかし12月、酒井忠次、小笠原信嶺ら家康の信濃平定軍に敗れて和睦[1]の形で臣従し、翌天正11年(1583年)3月に諏訪郡を所領として安堵されることとなった[1]。
天正18年(1590年)、家康が関東に移ると頼忠もこれに従い、武蔵比企郡奈良梨、児玉郡蛭川、埼玉郡羽生に計1万2000石の所領を与えられた。文禄元年(1592年)には上野総社に所領を移される。この頃に家督を嫡男の頼水に譲った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは江戸城の留守居役を務めた[1]。
以上、Wikiより。