陶晴賢 (すえ はるかた) | げむおた街道をゆく

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陶 晴賢 / 陶 隆房(すえ はるかた / すえ たかふさ)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。
晴賢と名乗ったのは、天文20年(1551年)に主君・大内義隆を討ち大友晴英(後の大内義長)を当主に据えてから厳島の戦い前に出家するまでの数年間だけであり、それまでは初名の隆房を名乗っていた(以下、本項ではその当時の名乗りに合わせて記述する)。



ー 生涯 -

家督相続
大永元年(1521年)、陶興房の次男として生まれる。陶氏は周防国の戦国大名・大内氏の庶家・右田氏の分家であり、大内氏の重臣の家柄であった。少年時は美男として知られ、そのため大内義隆の寵童として重用された。また、陶氏には、代々の当主が本家・主君にあたる大内氏当主より一字拝領するという慣わしがあり、元服時には義隆の偏諱を受けて隆房(たかふさ)と名乗った(弟の隆信(たかのぶ)も同様である)。
天文6年(1537年)、従五位下に叙位されている。天文8年(1539年)、父・興房が病死したため、家督を相続した(ただし、父の生前から家督を受け継いでいたという説もある)。

大内家臣時代
天文9年(1540年)、出雲国の尼子晴久が吉田郡山城を攻めたとき、毛利元就の援軍として大内義隆から総大将の権限を与えられ、天文10年(1541年)1月に尼子軍を撃退するという功績を挙げた(第1次吉田郡山城の戦い)。
天文11年(1542年)には逆に尼子領に侵攻するが、この出雲遠征における月山富田城攻め(第一次月山富田城の戦い)には失敗し、大内晴持をはじめとする多数の死傷者を出して大敗した。以後、義隆は軍事面に興味を示さなくなり文化に傾倒、文治派の相良武任の台頭を招く。この事態に武断派の隆房は影響力を失ってゆき、さらに武任を重用する義隆とも不仲になってゆく。
天文14年(1545年)、義隆に実子・大内義尊が生まれたことを契機に、隆房は相良武任を強制的に隠居に追い込み、大内家の主導権を奪還する。天文17年(1548年)に義隆が従二位に叙位されると、従五位上に昇叙された。また義隆の命令で、備後国へ出陣し、毛利元就らとともに神辺城を攻撃している(神辺合戦)。しかし同年、義隆によって相良武任が評定衆として復帰すると、文治派の巻き返しを受けて再び大内家中枢から排除される。このため天文19年(1550年)、内藤興盛らと手を結んで相良武任を暗殺しようとするが、事前に察知されて義隆の詰問を受けることとなり、事実上、大内家での立場を失った。

謀反
詳細は「大寧寺の変」を参照
天文20年(1551年)1月、相良武任は自らも隆房との対立による責任を義隆に追及されることを恐れて、「相良武任申状」を義隆に差し出し、この書状で「陶隆房と内藤興盛が謀反を企てている。さらに対立の責任は杉重矩にある」と讒訴する。これを契機として文治派を擁護する義隆と武断派の隆房の対立は決定的なものとなり、8月10日(9月10日)には身の危険を感じた相良武任が周防から出奔するに至り、両者の仲は破局に至った。
8月28日(9月28日)、隆房は挙兵して山口を攻撃し、9月1日(9月30日)には長門大寧寺において義隆を自害に追い込んだ。さらに義隆の嫡男・義尊も殺害した(義尊については殺さずに新しい当主に擁立するつもりだったともいう説もある)。そして野上房忠に命じて筑前を攻め、相良武任や杉興連らも殺害したのである。さらに謀反が終わった後には杉重矩も殺害した。義尊の弟で義隆の次男である問田亀鶴丸は、母方の祖父が内藤興盛であることもあり助命している。

毛利元就との戦いと最期
天文21年(1552年)、義隆の養子であった大友晴英(当時の豊後大友氏当主・大友義鎮(宗麟)の異母弟、生母は大内義興の娘で義隆の甥にあたる)を大内氏新当主として擁立することで大内氏の実権を掌握した。この時隆房は、晴英を君主として迎えることを内外に示すため、前述の通り陶家が代々大内氏当主より一字拝領するという慣わしから、晴英から新たに一字(「晴」の字)を受ける形で、晴賢(はるかた)と名(諱)を改めている(なお、大内晴英は翌天文22年(1553年)に大内義長と改名し、のちに晴賢の嫡男・長房がその一字を受けた)。
その後、晴賢は大内氏内部の統制という目的もあって徹底した軍備強化を行なった。北九州の宗像地方を影響下に置くため、宗像氏貞を宗像に送り込み、山田事件を指示したともされている。しかし、この晴賢の政策に反発する傘下の領主らも少なくなかった。天文23年(1554年)、それが義隆の姉を正室とする石見の吉見正頼と安芸の毛利元就の反攻という形で現われたのである。
晴賢は直ちに吉見正頼の討伐に赴くが(三本松城の戦い)、主力軍が石見に集結している隙を突かれて毛利元就によって安芸における大内方の城の大半が陥落してしまった(防芸引分)。このため、晴賢は窮余の一策として宮川房長を大将とした軍勢を安芸に送り込むが、折敷畑の戦いで大敗してしまい、安芸は毛利家の支配下となった。
弘治元年9月21日(1555年10月6日)、晴賢は自ら2万から3万の大軍を率いて、安芸厳島に侵攻し、毛利方の宮尾城を攻略しようとした。しかし毛利軍の奇襲攻撃によって本陣を襲撃されて敗北し、毛利元就に味方する村上水軍によって大内水軍が敗れて、退路も断たれてしまい、逃走途中で自害した(厳島の戦い)。享年35。
なお、晴賢の遺骸は、桜尾城で首実検の後、洞雲寺に葬られた。



ー 辞世の句 -

「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」。



ー 死後 -

晴賢の死後、居城の富田若山城は先に父・杉重矩を晴賢に殺害された杉重輔によって攻め落とされ、晴賢の嫡男・長房は自害に追い込まれる。以後、大内氏は急速に衰退していき、弘治3年(1557年)には毛利軍によって滅ぼされた(防長経略)。



ー 人物・逸話 -

父の興房に似て武勇に秀で、「西国無双の侍大将」と呼ばれた。一方で厳島の戦いに際し、弘中隆包の「元就の狙いは大内軍を狭い厳島に誘き寄せて殲滅しようとするものだ」という進言を入れずに出陣し大敗するなど、器量に乏しい面も覗かせる。
直情型で独断専行が多く、義隆との対立については晴賢自身の性格が原因という説もある。また冷酷な一面もあり、厚狭弾正という人物が無罪を訴えていたとき、笑みを浮かべながら火あぶりにした。直後の合戦で晴賢は落馬したが、このとき晴賢の家臣は弾正の亡霊が晴賢を突き落とすのを目撃したと伝えられる。
疑り深い一面があり、配下の江良房栄の才覚を恐れた元就が、房栄が内通しているという噂を流すと晴賢は他の家臣が「元就の謀略だ」と言うのも聞かずに房栄を誅殺している。一方で臣下の小者を思いやる逸話もあり、出雲遠征から敗走する際に自分の兵糧を護衛に与え、自らは干鰯を食べて飢えを凌いだという。
現在、廿日市の洞雲寺にある晴賢の墓所であるが、江戸時代の歴史書『芸藩通志』が初出であり、元和4年(1618年)時の佐方村下調帖によれば、「往古より有る墓所は厳島教親(藤原教親)、厳島興藤(友田興藤)、毛利元清(穂井田元清)と妻、大江元澄(桂元澄)と記載されており、晴賢の墓については記載されていない。晴賢の自害の地は厳島の山腹とされており、毛利方に討たれたのでは無い事から、上記と合わせて毛利方の首実検を訝る指摘もある。


以上、Wikiより。



陶晴賢