島津歳久 (しまづ としひさ) | げむおた街道をゆく

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島津 歳久(しまづ としひさ)は戦国時代の武将。島津貴久の三男で、島津義久、島津義弘の弟。日置家の祖にあたる。



ー 生涯 -

略歴
祖父の忠良から「始終の利害を察するの智計並びなく」という評価をされ[1]、後世、薩摩の人々から稀代の「智将」であったと謳われた[要出典]。主に兄義久の傍らで作戦参謀として活躍し、島津軍団の方針を左右する立場にあった。また初陣の岩剣城での奮戦をはじめ、兄義弘・弟家久と並び島津家の多くの合戦に参加した。横川城攻め(横川崩れ)、大口堂ヶ崎における義弘救出戦、大隅小浜城攻め、伊東攻め、耳川合戦、第二次水俣城攻め、豊後入りでの義弘が指揮した肥後口側の軍勢の副将などが主な功績として挙げられる。家久を従えて、大将として出陣した事もあり、その際、戦慣れしていない家久が、不覚を取るだろうと家久を城に入れ、案の定、夜襲により家久は窮地に陥るが、いち早くそれを察知し、事なきを得ている[要出典]。
天文23年(1554年)、祁答院・蒲生連合軍との合戦の緒戦である祁答院良重の大隅岩剣城における合戦が歳久の初陣。同母兄の義久、義弘もこの合戦で初陣を果たす。歳久18歳のときであった。岩剣城は三方を断崖に囲まれた天然の要塞で、戦いは激戦となるも、ついに落城。良重主従は、岩剣城を捨てて本拠のあった祁答院に逃げ帰る。歳久17歳の時である。
その一年後、歳久18歳の時、大隅蒲生北村城の合戦で島津貴久は敵の謀略にかかり、この戦いに島津勢は敗れ、義久、義弘は命からがら脱出。 歳久も敵中に孤立する中、重傷を負いながらも脱出した。歳久22歳のとき、蒲生本城落城によって蒲生合戦は終了している。
永禄5年(1562年)、島津氏・北郷氏・相良氏の三家は、伊東氏により家督と領地を簒奪された北原氏の再興に助力するのだが、歳久は北原への恭順に応じない北原旧臣北原兼正討伐の総大将に任じられ、その居城である横川城を攻め落とした。その後、歳久26歳の永禄6年(1563年)、吉田城(松尾城)の城主を命じられ、現在の鹿児島市吉田、佐多浦、本城、本名、宮之浦を任される。歳久は、44歳になるまでの18年間吉田城(松尾城)に居住した。
姶良地方より撤退して祁答院の虎居城に拠った祁答院良重は、なお入来院氏、東郷氏らの渋谷一族と結んで強勢を保ったが、永禄9年(1566年)の正月に、妻(薩州島津の出で、島津義虎の娘)によって暗殺され、急速に祁答院氏の勢力が衰退。元亀元年(1570年)、ついに入来院、東郷など渋谷一族をこぞって島津方に帰順させる事に成功。祁答院領には歳久が入る事になる。
天正5年(1577年)、日向の伊東義祐が島津勢に追われ豊後(大分県)に敗走すると、伊東氏一族の娘であった梅を連れ帰り、梅君ヶ城に連れ帰る。梅は、歳久の側室となり、後に、伊集院久洪室を産む。歳久には、児島備中守女との間の長女(婿養子の島津忠隣室)と、この梅との間の次女しか子供は居ない。しかも、二人の室は、ともに連れ子ありの再婚である上、身分が正室にしては低すぎるとの事から、歳久は側室のみで、正室はいないとの見方がある。
そして、天正8年(1580年)、歳久44歳のとき、祁答院(現在のさつま町の佐志、湯田、時吉、虎居、平川、船木、久富木、鶴田、紫尾、柏原、求名(ぐみょう)、中津川など)1万8千石を加増された。
歳久は、この地をよく治めながら、三州統一や九州制圧において重要な役割を果たすして行く。その後は56歳でなくなるまでの12年間をこの祁答院宮之城にある虎居城を本領として過ごしたため、歳久直属軍は、宮之城衆と呼ばれた。後に歳久自害の報にこの宮之城衆を中心に3000が虎居城に立て籠もったりと、家臣の信頼が厚かったとされる。
その後、宮之城は、島津貴久の三弟 尚久の息子 忠長が領したが、現在でも、旧祁答院領(鹿児島県さつま町)では、島津金吾左衛門尉歳久を祀る『大石神社』の境内で毎年9月18日に金吾様踊りが奉納されている。
歳久は義久の鎮座する鹿児島を中心とした防衛戦の要となる地を次々と賜り、治世の実りを得た。さらに家中内での酒宴などでは酒の飲めない兄に代わり家臣の杯を受ける事も多く家臣団からは非常に慕われた[要出典]。大隅蒲生北村城の合戦により受けた傷もあり、基本的に、義久の傍らで軍師的な存在としていたため、兄義弘や弟家久のように、戦場の最前線に立つ事は少なかったと[要出典]。
しかし、そこまで島津家に尽くした歳久の最後は、彼を慕う家臣達が中心となって起こした豊臣政権打倒を掲げる梅北一揆によって島津家の責任の一切を背負って自害するという悲劇的なものであった。ただし、この事象をすら、歳久は利用したとも取れる動きを見せる[要出典]。この事は、後の薩摩藩内での盛んな心丘公(歳久の法名)崇拝へと繋がっていく。

九州征伐
豊臣秀吉の九州征伐の際、家中が抗戦へ傾く中で秀吉を「農民から体一つで身を興したからには只者ではない」と評価して、四兄弟中ただ一人上方との和平を唱えたという。しかし評議の場で和睦案は一蹴され、島津氏は秀吉と戦うことになる。[2]
家中が和睦に傾いた時に、歳久は、「和睦には時勢があり、今、このまま降伏すべきではない。」と兄弟で唯一抗戦を主張。 義久・義弘の二兄が秀吉に降伏した後も最後まで徹底的に抵抗。秀吉が川内の泰平寺から大口に陣を移す途中に位置する歳久の祁答院領の西端の山崎にて、家臣を使いにやり、巧みに秀吉軍を険相な路に案内し、秀吉の駕籠に矢を六本射かけさせた。矢を射かけたのは歳久の家臣の本田五郎左衛門であった。予め襲撃に備えた秀吉の駕籠は空駕籠にしていた為、秀吉は難を逃れたが、全国を見渡しても、関白となった後の秀吉に対してここまで徹底した反骨を見せた者はいないとされる。
この征伐前後における彼の矛盾した秀吉への対応には、秀吉の九州征伐で婿養子・島津忠隣を失ったことからの怨恨説、今征伐における秀吉の島津家への不興を一身に背負おうとした説など複数あるが、定説はなく歳久の後年を語る最大の謎である[要出典]。ちなみに総領である義久は、歳久を代表とする反秀吉派の家臣達を戦後処理における上方との有利な講和条件引き出し(薩摩、大隅、日向三カ国の所領安堵)に利用した節があり、そうなる事を、歳久は読み切っていたと言う説もある[要出典]。

秀吉の征討
1592年、秀吉の始めた朝鮮出兵(文禄の役)も病気を理由に出陣しなかった[3]。いずれにせよ、上記のように反抗的な態度を取り続けたことから、秀吉は朱印状を、義久、義弘、家久には与えたが、歳久には出していない。これは豊臣秀吉による島津氏を分断する意図であったと思われるが、これ以後も、島津氏は長兄義久から本当に独立してしまった兄弟はいない。
それに加えて、同年に島津氏の家臣・梅北国兼が秀吉に対して反乱(梅北一揆)を起こしたとき、その反乱軍に歳久の家臣が多く参加したことなどからも、秀吉の怒りを一手に買うことになり、兄・義久の追討を受けて自殺しようとしたが、追手が立ちはだかっていたため、竜ヶ水に上陸した。自害しようとしたものの、体が不自由なため、上手く自害できず、また追手も太守の実弟ということで手が出せずにいたところで「早う近づきて首を取れ」と歳久が言い暫くの後、原田甚次が首を取った。享年56。
亡骸を調べると義久に宛てた遺書と辞世の句が見つかり、そこには「私は病に侵され、太閤殿下の前に出ることが出来なかったのであって、何らやましいところはない。しかし謀反を疑われた以上、島津家安泰のために切腹しようと思う。家臣たちは承服しがたいらしいので武士の本分を貫くべくやむをえず交戦するが、これは兄に対して弓を引こうというものではない」という主旨の文がしたためられていたという。
辞世の句は「晴蓑(せいさ)めが 玉のありかを 人問わば いざ白雲の 上と答へよ」。
歳久は、この最期の時をすら予見していた節があり、義久に呼ばれて自身の居城を出た際、何故か、甲冑をもって出たとか、供の人数を絞ったとも言われる。また、亡骸に辞世の句が縫いつけられていた事からも、城を出る時点で全てを理解していたとも思われる[要出典]。
いずれにせよ、歳久は、豊臣秀吉の怒りを一身に受けた事で、島津家と他の兄弟を守った事は事実であり[要出典]、その事に感動した[要出典]兄義久により、その子孫は日置島津家として存続するのである。

死後
首級は京都・一条戻橋に晒された後京都浄福寺に、遺体は帖佐の総禅寺に、それぞれ葬られ、霊は島津氏歴代の菩提寺・福昌寺にて供養された。また秀吉の没後、歳久最後の地に心岳寺を建立し霊を祭った。現在の平松神社はこの心岳寺の跡地に立てられたもの。毎年旧暦7月18日にはその遺徳を偲んで「心岳寺詣り」が行われる。
また、自害の折刀を握ることが出来ず、傍らの石を持って自害せんとして苦痛を味わったとも伝えられている[1]。この際に「女もお産の時に苦しい思いをするであろう。自分の死後はそういった女の苦しみを救ってやろう」と言ったともされており、平松神社には「戦の神」として以外に「安産の神」としても信仰されている[1]。
旧薩摩藩内ではその生き様が郷中教育とも相まって、兄義弘を凌ぐほどの崇拝を受けた。特に幕末・明治黎明期、安政の大獄にて錦江湾海上に追い詰められた西郷隆盛が、自身の覚悟として小舟の上で同乗していた僧月照に歳久の故事を語った後、心岳寺の方角へと手を合わせ闇夜の海に身を投じたエピソードが存在するほど薩摩志士達の心を捉え支えた[要出典]。
歳久没後、忠隣の嫡男・島津常久が跡を継いだ。



ー 島津義久・義弘の追悼の和歌 -

島津義久
岩木まで 蔭ふる寺を 来てみれば 雪の深山ぞ 思ひやらるる[1]
住み馴れし 跡の軒端を 尋ねてきて 雫ならねど 濡るる袖かな[1]
写し絵に 写しおきても 魂は かえらぬ道や 夢の浮橋[1]

島津義弘
夕浪に 月と雪とを 待ちとらば いづくはありと 磯の山寺[1]
み佛を 頼むものゆえ 袖に散る あられの玉を 手向けにやせむ[1]


以上、Wikiより。



島津歳久