真田幸隆 (さなだ ゆきたか) | げむおた街道をゆく

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真田 幸隆(さなだ ゆきたか)は、戦国時代の武将。信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。
幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され、[2]また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている(柴辻俊六による)。
出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが武田晴信に仕えて旧領を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。幸村の祖父でもある。



ー 生涯 -
信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の豪族・海野棟綱の子[3]、あるいは棟綱の娘婿真田頼昌の子[4]として生まれたとされている。幸隆の出自については様々な家系図とともに諸説あり、真田氏自体も幸隆以前の記録が少ないとはいえ存在しているため、真田頼昌を棟綱の娘婿とする説や、海野棟綱の子である幸隆が頼昌の養子になったなど、様々な見解があり確定していない。
甲斐国では守護武田氏による国内統一が行われ信濃への進出を開始しており、武田信虎は天文10年(1541年)に同盟関係にある諏訪頼重や村上義清と共に小県へ侵攻する。同年5月の海野平合戦により海野一族は駆逐されており、幸隆が合戦に参加していたことを示す史料は無いものの、共に箕輪城主・長野業正を頼って上野に逃れている。
武田氏では天文10年(1541年)に武田晴信(信玄)が父・信虎を国外追放して家督を継ぎ、本格的な佐久・小県郡侵攻を再開する。幸隆は晴信期の武田氏に帰属して旧領を回復しているが、その帰属時期は諸説ある。武田方の初見史料となる『甲陽軍鑑』に拠れば天文17年(1548年)の上田原の戦いに板垣信方の脇備として参戦しており、『高白斎記』に拠れば、幸隆は調略を用いて佐久で抵抗を続ける望月氏の一部を武田方に臣従させたという。一方、江戸時代に成立した真田家史料では、『真武内伝』が天文13年説とともに武田家の伝説的軍師として知られる山本勘助の推挙があったとする伝承を伝え、『沼田記』が天文14年説、『滋野世記』が天文15年説を伝えている。初期の軍役は10騎程度と推定する説があり動員兵力は3~400人程度と考えられるが功名を重ねた後年は200騎程であっただろうとされている。
近年の研究では、猪坂直一は諏訪氏の娘(諏訪御料人)が武田晴信の側室となる際に禰津氏の養女となっていることから禰津氏が幸隆を推挙したと推測して天文12年説を提唱し[5]、柴辻俊六は武田の佐久侵攻と平行して相模の後北条氏が関東へ侵攻し、関東管領である上杉憲政を天文15年(1546年)4月に河越夜戦で上杉勢を上野から駆逐していることから、幸隆の帰属を天文15年としている。笹本正治は天文17年の上田原の敗戦を契機に、晴信が村上義清対策に人材を求めてそれに応じた、或いは自分から売り込んだのが幸隆であったと推測している。
武田氏に臣従した後は、信濃先方衆として軍役を務め、村上方の望月氏の調略などを行っている。天文19年(1550年)7月には小県郡諏訪に知行を約束されており[6]、同年9月の戸石城(砥石城)攻めは幸隆の要請にもよるものと言われている(柴辻による)。戸石城攻めで幸隆は村上方の清野氏や寺尾氏などを調略するが、戸石崩れ(砥石崩れ)と呼ばれる大敗で一時は失敗する。しかし翌天文20年(1551年)に再び戸石城攻めが行われ、『高白斎記』に拠れば幸隆の調略で同年5月26日に城はわずか1日で攻略されたという。
天文22年(1553年)、葛尾城が落城した村上義清は越後へ逃れ、幸隆は旧領を完全に回復する。義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、甲越両国は信濃の領有を巡って対峙し、川中島の戦いを展開することとなる。幸隆は対長尾(上杉氏)の最前線に置かれることとなり、引き続き真田本城を本拠地とし、戸石城番を兼ねた。
この頃、関東へ進出した後北条氏は上野で上杉憲政を庇護した越後の長尾氏と対峙するが、幸隆は天文23年(1554年)に甲相駿三国同盟に基づく北条氏康の吾妻郡在城を求める出兵要請を受けており[7]、永禄4年からはじまる西上野侵攻など関東方面の戦略に関わっていたと考えられている(柴辻による)。
弘治2年(1556年)9月8日には埴科郡東天飾城を攻略し、小山田虎満(備中守)とともに城番を務める。『軍鑑』に拠れば、永禄2年(1559年)に晴信が出家して信玄と名乗ると、自身も剃髪して一徳斎と号したという。
『軍鑑』によれば、永禄4年(1561年の、越後上杉氏との第4次川中島の戦いでは、嫡男・真田信綱とともに妻女山の上杉本陣への夜襲に加わっていたという。川中島の戦いの後、武田信玄は西上野侵攻を開始するが、武田氏に提訴されていた吾妻郡内での鎌原氏と羽尾氏の所領抗争は、双方が真田の同族でもあることから、幸隆が調停に関わっている。永禄6年(1563年)には羽尾氏を支援した上杉方の斎藤氏の居城・岩櫃城を、永禄8年(1565年)には獄山城を、永禄10年(1567年)には白井城を攻略している。近年の柴辻俊六らの研究によると、嫡男・信綱と共に、武田氏の上野攻略の拠点・箕輪城代であった時期もあるようである。これは譜代衆並みの扱いである。
永禄10年(1567年)、病気のために家督を信綱に譲って隠居していたとされている。このため、信玄の駿河侵攻や西上作戦には加わらず、もっぱら信濃北部及び上州方面の抑えとして活動した。
天正2年(1574年)5月19日、戸石城で病死した。享年62。
墓所は長野県上田市真田町の曹洞宗真田山長谷寺にある。
肖像は長野県長野市松代町の長国寺所蔵。



ー 人物・逸話 -
幸隆の智略と功績は信玄に高く評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許された。武田家中でも一目置かれていたと言われており、戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。ただし現在のこうした幸隆像は、19世紀前半に近世の松代藩主真田氏の業績を記した『先公御事蹟稿』などを土台にしており、真田家の主張を前提として過大評価されたものである事は注意を要する。
真田家の旗印である「六文銭」は三途の川を渡るための船賃という不吉な意味であるが、幸隆はかつて仕えていた山内上杉家を見限り、身命を賭して武田家に仕えて家名を残す覚悟で、この旗印を用いたとされる。(家紋・旗印に関しては「真田氏の家紋」を参照)


以上、Wikiより。



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