佐藤堅忠 (さとう かたただ) | げむおた街道をゆく

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佐藤 堅忠(さとう かたただ、天文17年(1548年)- 慶長17年12月23日(1613年2月12日))は戦国時代から江戸時代に武将。通称、勘右衛門。従五位下、駿河守。父は佐藤信則。名は堅成、堅忠。法名宗雪。子に佐藤継成、佐藤吉次。戒名、冬林宗雪居士(後年に元亨院殿と追贈)。伊深佐藤氏の祖[1]。



ー 生涯 -
同じ藤原秀郷の佐藤一族である加治田城主・佐藤忠能と共に行動する。堂洞合戦、関・加治田合戦後、織田信長の要請を受けて佐藤忠能の養子となり、斎藤利治が城主になるとその同族として共に行動する。
利治が本能寺の変で主君・信長、織田信忠親子と共に討死した後、美濃斎藤氏の斎藤利堯に仕える。加治田・兼山合戦に従軍して森氏に勝利するもしばらくの後、利堯が病没してしまい、またその際の後継者を決めておらず、程無くして敵対勢力の森氏によって領地が統合され、結果的に森氏の支配下となった。
その後、兼山村一柳に寓居。森忠政の推挙により、豊臣秀吉に仕官。天正13年(1585年)金切裂指物使番となり、文禄3年(1594年)伏見城の普請奉行を務めた。秀吉の没後は、徳川家康に転仕している。
家康と共に会津征伐、関ヶ原の戦いに従軍。慶長10年(1605年)徳川秀忠の将軍宣下拝賀上洛に供奉し、慶長12年(1607年)には駿府城築城の普請奉行など歴任する。慶長17年(1612年)65歳で死去。



ー 人物 -
豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠などに歴仕した際に出世し、奉行職を務めた。
普請技術に長けており、普請奉行を歴任する。
美濃佐藤氏の一族として豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠の供廻りとなり、その都度付き従った。
主要な合戦に参加している。



ー 逸話 -
加治田城主に仕えていた時は、湯浅新六の将の元で大島光政と共に従軍していた。
加治田・兼山合戦の前哨戦において、湯浅新六・大島光政・井戸宇右衛門とともに五十余騎で、毛利山城に伏兵を配備。森勢に挟撃し森勢は大混乱、死傷者続出し大敗。激戦地は三つ池付近で傷を負った武士らがにげまどい「這坂」の地名がついた。
大島光政とは良好な間柄であり、徳川家中では共に旗本寄合席として、末代まで親睦を深めた。


以上、Wikiより。



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