佐竹義篤 (さたけ よしあつ) | げむおた街道をゆく

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佐竹 義篤(さたけ よしあつ、永正4年7月2日(1507年8月10日) - 天文14年4月9日(1545年5月19日))は、日本の戦国大名で、常陸国の大名佐竹氏第16代当主。大膳大夫。



ー 生涯 -
佐竹義舜の子(次男か)として生まれる。兄の今宮永義(ながよし、今宮道義の祖父)は庶子である上、伯父(義舜の兄)の今宮周義の跡を継いだため、代わって義篤が嫡男となり、永正14年(1517年)、義舜の死去に伴い十一歳で佐竹氏の家督を継ぐ[1]。まだ幼少であったため、叔父の北義信が後見人となり後援した。若い義篤は佐竹家を統率するだけの器量に欠け、弟の佐竹義元と不和を生じた[2]。享禄2年(1529年)、義元は反乱を起こし、小貫俊通の居城部垂城を攻撃、陥落させる[3]。さらに1535年には、佐竹一族の高久義貞も義篤に反旗を翻す。この頃岩城成隆、江戸忠通が佐竹の領域に侵略し、高久義貞はそれに呼応する形で決起した。しかし、義篤は伊達稙宗の斡旋で忠通、成隆と和睦し、高久義貞は孤立することとなる[4]。進退窮まった義貞は義篤に降伏、高久義貞の反乱は終結する。1538年には、宇留野一族の宇留野長昌が反乱を起こす。1539年には、那須政資・那須高資親子の抗争に介入。義弟の小田政治と共に政資を支援した[5]。天文9年(1540年)には部垂城を急襲して宇留野義元を自害に追い込み、高久義貞の謀反に続いて義元の反乱を終息させ(部垂の乱)、義元に与した兄・今宮永義や小場氏や前小屋氏らも支配下におさめた。対外的には白河結城氏や那須氏と戦って勢力を拡大し、国内においては江戸氏を従属させるなど常陸北部を統一して佐竹氏の戦国大名化に成功した。また、室町幕府奉公衆であった美濃佐竹氏の佐竹基親の下向をきっかけに幕府との関係を再構築している[6]。伊達氏の天文の乱が起きると伊達晴宗に味方し、伊達稙宗方の相馬氏と戦った。


以上、Wikiより。



佐竹義篤