榊原 康政(さかきばら やすまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、現在も家康覇業の功臣として顕彰されている。
ー 生涯 -
出生から家督相続
榊原氏は三河にて発生した氏族、松平氏譜代家臣の酒井忠尚に仕える陪臣であった。
天文17年(1548年)、榊原長政の次男として三河国上野郷(現在の愛知県豊田市上郷町)に生まれる。幼い頃から勉学を好み、書を読んで、字も大変上手かったという。13歳の時、松平元康(後の徳川家康)に見出され、小姓となる。三河一向一揆鎮圧戦で初陣を果たし、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた。康政は兄・榊原清政を差し置き、榊原家の家督を相続しているが、理由として、清政が謀反の疑いで切腹した家康の長男・松平信康の傅役であったことから、後悔の念で自ら隠居したためとも、清政が病弱であったため、度々康政が名代を務めることが多く、それ故に康政が家督を継いだともいわれるが、未だ定かではない。ちなみに家康が関東に移封された後、康政は度々清政を見舞っている。
永禄9年(1566年)、19歳で元服。同年齢の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属される。以後も家康の側近にあって、旗本部隊の将として活躍。元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは朝倉軍の側面攻撃で多大な武功を立てている。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは家康撤退時に康政は浜松城に入らず、昼間のうちに浜松城に入れなかった味方兵を呼び集めて夜を待ち、一斉に兵に声を上げさせながら敵陣に駆け入らせ、動揺し逃げ惑う武田軍を瓦解させてから浜松城に入ったという。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは決死の覚悟で徳川本陣に突撃してくる内藤昌豊を本多忠勝と共に戦って家康を守ったという。天正9年(1581年)の高天神城の戦いでは先陣を務めた。翌天正10年(1582年)の本能寺の変発生後の家康の伊賀越えにも同行している。
本能寺の変後
天正12年(1584年)、家康が信長の死後に頭角を現した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と対立し、小牧・長久手の戦いに至る。この合戦で秀吉の甥・秀次の軍勢をほぼ壊滅に追い込み、森長可、池田恒興を討ち死にさせた。また江戸時代に成立した『藩翰譜』によれば、康政は秀吉の織田家の乗っ取りを非難する檄文を書き、これに憤怒した秀吉は康政の首を獲った者には十万石を与えるという触れまで出したという。この後、二人は和解している。詳しくは人物・逸話を参照。
激怒した秀吉は康政の首に10万石の賞金をかけたと言われるが、康政は羽黒の戦いでも戦功を挙げた。もっともこれによって秀吉の注意を引き、家康と秀吉が和睦すると京都への使者に立てられる。天正14年(1586年)11月、家康の上洛に随身し、家康は同月5日、正三位に昇叙し、康政は同月9日、従五位下・式部大輔に叙任され、豊臣姓を下賜された[1]。
天正18年(1590年)、小田原征伐では徳川軍の先手を努めた。同年、家康が関東に移封されると関東総奉行として本多正信らを監督し、江戸城の修築に務める傍ら、上野国館林城(群馬県館林市)に入り、忠勝と並んで家臣中第2位の10万石を与えられる。館林では堤防工事(利根川東遷工事の一環)や、街道整備などに力を注いだ。
江戸時代期
慶長4年(1599年)頃、石田三成が伏見館の家康を襲って誅殺しようとしているという動きがあったといわれ、康政は情報を得てすぐに家康の元に馳せ参じ、守ったという。この時、すぐには伏見館に入らず、東国から押し寄せた家康を守る兵の数を少しでも多く見せようと考え、関所を設けて人々の往来を制限。それと共に兵を京、伏見、淀に送って、「今家康の兵十万が東国より来て陣を取っており、兵糧を買いつけたい」と言って、兵糧として赤飯、饅頭、餅、酒を一つ残らず買い取ると触れ回ったという[2]。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいては、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍し、中山道を辿り美濃国を目指すが、荒天で家康からの進発命令を携えた使者が遅れ、信濃国上田城(長野県上田市)の真田昌幸攻めを中止し、美濃に向かったもののやはり荒天で、秀忠とともに合戦に遅参する(上田合戦)。『藩翰譜』によれば、家康は秀忠の失態に激怒したが、康政のとりなしで事なきを得て、伏見城での対面が許され、秀忠は康政に大変感謝したと言われる。また、康政は秀忠に対して上田城攻撃を止めるように進言したとも言われている。
関ヶ原の合戦の後に老中となるが、所領の加増は無かった。家康が冷徹であったとする根拠の1つとして、武功派家臣で、大きな失態のなかった康政を躊躇なく遠ざけたことを挙げることもあり、康政らはこれに憤慨していたという説もある[3]。別に、康政が本多正信が既に老中首座となっていたため、「老臣権を争うは亡国の兆しなり」と言い、自ら離れていったとする説もある[4]。
一説には家康から水戸に加増転封を打診されたが、関ヶ原での戦功がないこと、館林が江戸城に参勤しやすいことを理由に断ったのだとも言われる。家康は康政の態度に感銘して、康政に借りがあることを神に誓い証文として与えた。
慶長11年(1606年)5月14日に館林にて死去。康政に恩ある秀忠は病床にある康政を見舞うため、医師や家臣を派したが、その甲斐なく59歳で没した。長男の忠政は母方の大須賀家を継ぎ、次男の忠長は夭折していたことから家督は3男の康勝が継いだ。大正4年(1915年)11月9日、贈正四位。
ー 人物・逸話 -
功績
『武備神木抄』では、康政は武勇では忠勝に劣るが、部隊の指揮官としての能力は忠勝に勝り井伊直政に匹敵するとされている。同書では「衆(部隊)をよく使い、軍慮見切り等は忠勝、両将(康政・直政)におよばず」と記されている。
姉川の戦いの時、第二陣に属し、この時、隊を真一文字に進ませ、登り難い岸を声を掛け合って押しあがれと指示。酒井忠次隊を追い抜かんばかりで、先鋒だった忠次隊も慌てて功を競ったという。この戦いで康政は家康に、「この手の戦い方は、この度の康政が手本なり」といわしめたとされる[2]。
秀吉の死後、家康の命令で徳川軍を率いて近江国の瀬田まで進軍した。これは示威行動であるが、実際の兵力は3,000人ほどだった。ところが康政は瀬田に関所を設けて人留めを行なうことで、諸大名に大軍を率いているように見せつけさせたとされている[5]。
三河大樹寺で学んだ能筆家としても知られ、行政能力に長けており、家康の書状もよく代筆したとされる。小牧・長久手の戦いの際に前年に信長の3男・信孝を殺害したという秀吉非難の文言も、達筆な文字であちこちに記された[6]。
幕府時代
関ヶ原のあと、家康はこれまでの功績を賞して水戸藩25万石を与えようとしたが、康政は関ヶ原で武功が無かったとして辞退した(『名将言行録』)[7]。
家康は関ヶ原の後、康政を秀忠付の老中に任命され、前述のとおり加増の話もあったが、康政は「老臣が権を得るのは亡国の兆しである」として、加増を断り領国へ帰っている。本多正信が引き止めたが、及ばなかった[8]。
その他
康政が家康に仕えた時、水野信元の家人に餞別としてもらった具足を着て戦に参加し、高名があったことから、以降康政は嘉例として出陣の時にはその具足を持ったという[2]。
隊旗には「無」の一字を配した。「無」の文字の意味は未だ不明だが、無欲無心で家康の元で戦う信念を表したとも、常に無名の一将でありたいという康政の志であったとも言われている。所用の「紺糸威南蛮胴具足」や「黒糸威二枚胴具足」などは、現在は重要文化財で東京国立博物館の所蔵(e国宝に画像と解説あり(外部リンク))。
本多忠勝とは同年齢であったことから仲が良く、親友関係にあったという。天正元年(1573年)の長篠城攻めでは忠勝と軍功を競い合っている。
井伊直政とは心友だったとされ、その交流の深さを知る上で、康政の次の様な言葉がある。「大御所(家康)の御心中を知るものは、直政と我計りなり」。常々「自分が直政に先立って死ぬようなことがあれば、必ず直政も病になるだろう。また直政が先立てば、自分の死も遠くない」と語り、直政が従軍するとあれば、康政は安心し、康政が従軍するとあれば直政は安堵したという[9]。
家康の嫡男・松平信康は勇猛だが乱暴な一面もあった。このため康政は信康にたびたび諫言したため遂に信康は激怒して康政を弓で射殺しようとした。だが康政は少しも動じず泰然としていたため、逆に信康のほうがその態度に気圧されて諫言に従った[10]。
家康と秀吉が和平した後、最初の使者として秀吉から康政が指名されたという。康政が上京して秀吉と対面した時、秀吉は「小牧にて立札を立てた私の首を一目見たかろうと思って呼んだが、和睦した今になってみればその方の志はあっぱれである。それを言うためにここに呼んだ。儂もお主を小平太と呼んでよいか。徳川殿は小平太殿のような武将を持っていて羨ましい。その功を賞して、従五位下・式部大輔の官位を贈ろう。」と言い、祝宴まで開いたという[2]。
ー 子孫 -
康政の死後、家督は3男の康勝が継いだが、康勝は大坂夏の陣後、26歳の若さで継嗣無くして死去した。このため、榊原氏は断絶の危機に立たされたが、幕府は康政の功績を評価して、長男・大須賀忠政の長男で康政の孫・榊原忠次に跡を継ぐことを許している。後に忠次は播磨姫路藩15万石に栄転した。
榊原忠次が跡を継いだ際、康勝の庶子が実際には存在したが、家臣たちが「館林藩が潰れれば幕府の直臣になれる」と考え、幕府に庶子の存在を届けなかった。後で庶子の存在が発覚し、家臣は処罰された[11]。詳細は榊原康勝・勝政の項参照。なお、この庶子勝政の孫の代に、嗣子が絶えた本家を相続する。その後再度嗣子が絶えた際も、この旗本家から養子の政岑を迎えている。旗本家は養子を迎えるなどして存続し、江戸町奉行榊原忠之を輩出する。
兄・清政の家系は1,800石の幕府の旗本となり、駿河久能山東照宮の門番となった。
江戸時代中期の榊原家の当主・榊原政岑は、江戸城大手門の警備担当の際に奇抜な服装で現れたり、江戸の公認売春地区であった吉原に通い詰め、名妓を身請けするなどして、派手を好んでいた。この所業は当時、倹約令を出していた8代将軍・徳川吉宗の政策に反するところであり、榊原家の危機となったが、家康が康政に下していた神誓証文を幕府に差し出し嘆願したところ、名門榊原家ということを加味され当人の隠居および表高は同じ15万石で、越後高田藩に懲罰的移封処分という軽いお咎めで済んだとされる。
以上、Wikiより。