小早川隆景 (こばやかわ たかかげ) | げむおた街道をゆく

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小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
毛利元就の3男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。毛利両川の1人として、元春と共に毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け、文禄4年に発令された「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において秀吉に五大老の一人に任じられた。実子はなく、木下家定の五男で豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。特に豊臣秀吉の信頼は厚く、事実上毛利家の統率者であった。



ー 生涯 -

小早川家の相続
天文2年(1533年)、毛利元就と妙玖夫人の三男として生まれる。幼名は徳寿丸。
天文11年(1541年)に竹原小早川氏の当主・小早川興景が死去。継嗣が無かったため、小早川氏の重臣らは元就に対し子の徳寿丸に跡を継がせるよう求めた。大内義隆の強い勧めもあり元就は承諾した。義隆の偏諱を賜い隆景と称す。元就の姪(毛利興元の娘で隆景の従姉)が興景の妻だった縁もあり、この養子縁組は小早川家中でも平和裏に進み、天文14年(1544年)に隆景は竹原小早川氏の当主となる。
天文16年(1547年)、大内義隆が備後神辺城を攻めたときに従軍し、初陣を飾った。この時、隆景は神辺城の支城である龍王山砦を小早川軍単独で落とすという功を挙げ、義隆から賞賛された。
一方、小早川氏の本家・沼田小早川氏の当主であった小早川繁平は若年で病弱な上、眼病により盲目となっていたため、家中は繁平派と隆景擁立派で対立し、大内義隆は尼子氏の侵攻に堪えられないのではと懸念した。天文19年(1550年)、義隆は元就と共謀し、乃美隆興・景興父子を中心とした隆景擁立派を支持、尼子氏との内通の疑いで繁平を拘禁し、隠居・出家に追い込んだ。そして隆景を繁平の妹(後の問田大方)に娶せ、沼田小早川氏を乗っ取る形で家督を継がせることで、沼田・竹原の両小早川氏を統合する。その時、繁平派の田坂全慶ら重臣の多くが粛清されている。なお、隆景と門田大方との間には子供ができなかったため、桓武平氏流小早川本家の血筋は途絶えることになった。
隆景は沼田小早川氏の本拠高山城に入城するが、翌年の天文21年(1552年)には沼田川を挟んだ対岸に新高山城を築城し、新たな本拠とする。

毛利両川体制
以後の小早川氏は毛利一門に組み込まれ、毛利氏直轄の精強な水軍として活躍することになる。隆景の率いた小早川水軍は、毛利氏が一躍世に出た弘治元年(1555年)の厳島の戦いにおいて、陶晴賢率いる大内水軍を破って海上を封鎖し、毛利軍の勝利に大いに貢献している。この時、乃美宗勝を通じて村上水軍を味方に引き入れる調略でも功を挙げている。その後、弘治3年(1557年)に周防・長門を攻略し、大内氏を滅ぼした戦い(防長経略)にも参加している。
同年、元就が隠居し、長兄の毛利隆元が家督を継ぐが、隆景は次兄の吉川元春と共に引き続き毛利氏の中枢にあり続ける。永禄6年(1563年)、隆元が急死し、甥の毛利輝元が家督を継ぐと、元春と共に幼少の輝元を補佐した。元春が軍事面を担当したのに対し、隆景は水軍の情報収集力を活かし主に政務・外交面を担当している。永禄5年(1562年)から永禄9年(1566年)にかけての月山富田城の戦いで、宿敵尼子氏を滅ぼす。続く永禄10年(1567年)には河野氏を助けて伊予に出兵、大洲城を攻略し宇都宮豊綱を降伏させる(毛利氏の伊予出兵)。さらに大友氏と争い九州に出兵する。
元亀2年(1571年)には三村氏の所領であった児島を狙って兵を動かした浦上宗景とこれに同調する動きを見せた村上武吉らと交戦。4月に村上軍の本太城を陥落させ、児島にも粟屋就方を送り込んだが5月の児島の戦いで浦上宗景と増援に現れた三好氏配下の篠原長房の攻撃により粟屋就方は惨敗し児島制圧に失敗した。そんな情勢の中で6月に元就が危篤になると、備中に駐軍を続ける事が出来なくなり児島周辺の情勢を憂慮しながらも兵を一旦安芸へ退かざるを得なくなった[2]。
元就死後、毛利氏の家督はまだ若い元就の孫である毛利輝元が相続する事となり、その補佐役として毛利氏の中での元春・隆景兄弟の役割はますます大きくなり、大友氏や尼子氏、大内氏の残党らと争い各地を転戦する。

信長・秀吉との戦い
天正2年(1574年)に入ると、織田信長の勢力が毛利氏の勢力範囲にまで迫るようになる。この年播磨の浦上宗景が織田氏の支援を受け、毛利氏と戦いを交え、天正3年(1575年)には三村元親が織田方に通じて裏切る。隆景は三村氏を討伐し、豊後の大友宗麟が信長と通じて侵攻してくると、水軍を率いて大友軍と戦った。
天正4年(1576年)、鞆に落ち延びてきた15代将軍足利義昭の強い誘いもあり、毛利氏は織田氏と断交し、元春が山陰、隆景が山陽を担当し、第2次信長包囲網の一角として織田方と戦うこととなる。信長包囲網の中心的存在であった石山本願寺を救援した第一次木津川口の戦いでは、小早川水軍、村上水軍を主力とする毛利水軍が、織田方の九鬼水軍を破った。しかし2年後の天正6年(1578年)には第二次木津川口の戦いで鉄甲船を配備した九鬼水軍に敗れ、制海権を失う。同年、上洛を目指していたといわれる上杉謙信が急死し、天正8年(1580年)には石山本願寺が信長と講和し大坂を退去して信長包囲網は崩壊する。
織田方の中国方面軍司令官である羽柴秀吉の硬軟織り交ぜた攻略は次第に激しさを増し、毛利氏は押され続けることとなる。天正7年(1579年)には備前の宇喜多直家が織田方に離反。天正8年(1580年)には2年間にわたり織田方に抗戦(三木合戦)してきた播磨三木城が陥落、別所長治が自害する。さらに天正9年(1581年)には因幡鳥取城が餓死者が出る籠城戦の末陥落し、城主吉川経家が自害している。
天正10年(1582年)には清水宗治が籠る備中高松城が包囲され、隆景は輝元・元春と共に毛利氏の主力3万を率いて救援に赴いた(備中高松城の戦い)。しかし、この時点で既に3万の秀吉軍と兵力は拮抗しており、さらに3月に武田氏を滅ぼした信長の本軍が中国地方に向けて出兵の準備を進めていた。隆景は、毛利氏が織田氏に勝つ見込みが薄いと判断していたためか、安国寺恵瓊を通じて秀吉と和睦交渉を秘密裏に行う。6月に本能寺の変が起きて織田信長が死去すると、秀吉は明智光秀討伐のため、毛利方に本能寺の変を秘したままで急ぎ和睦を結び、畿内へ取って返す(中国大返し)。すでに秀吉の調略の手が伸びており、疑心暗鬼に陥っていた毛利軍は羽柴軍を追撃することができなかった[3]。『陰徳太平記』によると次兄の吉川元春が秀吉の追撃を主張したのに対し、隆景は「いったん和睦しようと起請文をもって約盟したのに、血墨のいまだ乾かぬうちに、敵の災いに乗じて約束を破る事は、大将たる者の恥であって、すべきことではない」と述べて反対したという。また隆景は中国の故事を出して喪を襲う事の非を説き、仁義を知る者の大切さを説いたといわれる[4]。
天正10年(1582年)に隆景は居城を新高山城から瀬戸内海に面した三原城に移している。

豊臣政権下
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは中立を保ったが、この戦いで羽柴秀吉が柴田勝家を破ると、毛利氏は日和見路線を捨て、秀吉に従属した。この時、隆景は養子の小早川元総(弟、後に秀包と改名)を人質として秀吉に差し出している。
その後は秀吉に積極的に協力し、天正13年(1585年)の四国攻めでは伊予の金子元宅を破り討ち取るなどの功績を挙げた。豊臣政権は大名統制策として伊予1国を与えて独立大名として扱ったが、隆景側は一度毛利家に与えられた伊予を改めて受領する形で毛利家の一武将としての体裁を保った。湯築城に入城した隆景は大津(大洲)城に秀包を配置するなど伊予の統治を開始し、河野通直を道後に隠居させて旧河野家家臣や西園寺公広とその家臣を配下とした。ただし、約2年で終わる伊予領主の間も本拠地は三原のままであった[5]。なお、隆景の伊予支配は素晴らしく、ルイス・フロイスは「隆景は深い思慮をもって平穏裏に国を治め、日本では珍しい事だが、伊予の国には騒動も叛乱も無い」と称賛している(『フロイス日本史』)。
天正14年(1586年)からの九州征伐にも参加し、戦後に秀吉から筑前・筑後・肥前1郡の37万1300石を与えられた。しかし九州征伐で次兄・元春とその嫡男・元長が相次いで陣没したため、隆景は1人で輝元を補佐し、毛利氏を守っていくことになり、そのため九州の所領支配までできないとして1度は断った[6]。しかし秀吉は豊臣家の蔵入地としてその代官をするように迫り、ならば肥後の佐々成政と交替でなら引き受けるとしたが、これも許されず、結局豊臣政権下の独立した大大名として取り立てられた[6]。隆景はこの時、「筑前は吾に過ぎたる事だ。最近まで敵だった身に大国を与えられるとは、吾を愛するに非ず。九州を手なずけるための仮の謀よ」と述べたという(『常山紀談』)。なお、隆景はあくまで毛利家の家臣として筑前は自分の領国とせず、豊臣家からの預かり物として管理した[6]。
天正16年(1588年)7月の上洛時には、秀吉から、羽柴の名字と、豊臣の本姓を下賜された。[7]天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、この際は徳川家康の三河岡崎城を預かっている。
文禄元年(1592年)に文禄の役が始まると、6番隊の主将として1万人を動員して出陣し全羅道攻めを行うが、抵抗を受け本格的な攻略を行わないうちに援軍に来た明軍に対応するために京畿道へ配置転換され、文禄2年(1593年)に朝鮮征伐における主戦である碧蹄館の戦いにおいて明軍本体を立花宗茂と共に撃退した。
文禄3年(1594年)には豊臣家から秀吉の義理の甥・羽柴秀俊(小早川秀秋)を毛利本家の養子に迎える事を提案される[6]。『芸侯三家志』によると40歳になる輝元には跡継ぎとなる実子が無く、そこで秀吉は秀俊を養子に送り込もうとした[8]。しかし秀俊の器量や本家の血統を保持するため、秀吉に謁見して弟の穂井田元清の嫡子・毛利秀元を養子にする事を定めているとして養子入りを拒否し、自らの養子にしていた異母弟・秀包に別家を立てさせて秀俊を自らの養子に迎えた[8]。
文禄4年(1595年)に豊臣秀吉が発令した「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条において、徳川家康や前田利家等と共に五大老の一人に任じられた。 その後、秀俊改め秀秋に家督を譲って隠居し、家臣団と共に三原に移る[8]。その際、秀吉から筑前に5万石という破格の隠居料を拝領する。その際、名島城を大改修して居城とした。慶長2年(1597年)6月12日急逝。享年65。死因は卒中といわれる。
隆景は死に際して遺言を遺したと『名将言行録』に伝わる。それによると隆景は宗家の輝元の器量や軽率が将来に禍する事を恐れ、「天下が乱れても、輝元は差し出して軍事に関与してはならない。ただ自分の領国を固く守って失わない謀をするがよい。なぜならば輝元には天下を保つべき器量が無い。もし身の程をわきまえず、天下の騒乱の謀に加わるか、自分の領土の外への野望を抱くなら、きっと所有している国を失い、その身も危うくなるであろう」という内容であった[9]。この遺言は隆景の死からわずか3年後に現実のものとなる。
隆景の死後、毛利両川の役割は2人の甥・吉川広家と毛利秀元が担うことになる。また、三原に移った家臣団は毛利氏に帰参、小早川氏は秀吉から秀秋に付けられた家臣団が補佐することになる。



ー 人物・逸話 -

豊臣政権下
秀吉との和睦が成立した際、秀吉から酒樽が届けられた。家臣は毒が入っている事を恐れたが、隆景は「既に誓書を取り交わして和睦した上で、そんな事はあり得ぬ。和睦の盟約を賀す酒を飲まぬのは、かえって非礼であろう」と言って3杯飲んだ[4]。そして届けた秀吉の使者に引き出物を渡して、謝辞を述べてから帰らせたという[4]。
黒田如水に対し、「貴殿はあまりに頭がよく、物事を即断即決してしまうことから、後悔することも多いだろう。私は、貴殿ほどの切れ者ではないから、十分に時間をかけたうえで判断するので、後悔することが少ない。」と指摘した。如水は隆景の訃報に接し、「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆じたという[10]。
「分別とは何か」と質問した黒田長政に対し、「長く思案して遅く決断する。分別の肝要は仁愛で、仁愛を本として分別すれば、万一思慮が外れてもそう大きくは間違わない」と答えた[11]。
甥の吉川広家に対して、「高松城の際、羽柴との誓約を守ったからこそ、毛利家が豊臣政権下で安泰でいられる」と語って聞かせたという記述が吉川家文書にある[4]。
死の間際に、同じく病床にあった弟の穂井田元清と「どちらが先に逝くか」と語り合ったといわれる[12]。
遺言で毛利輝元に、「天下が乱れても領国の外に欲を出してはならない。領国を堅く守ってこれを失わないことに力を注ぐべき」「安国寺の言を謀を用いれば、国家を失う」と警告した[13]。
時の天下人の豊臣秀吉からは日本の西は小早川隆景に任せれば全て安泰であると評価された。因みに東は徳川家康である。秀吉は隆景を、この世で正しく政を行える政治家でもあるとも評価している。しかしながら事実上毛利家の統率者であったため、小早川隆景の死後、毛利家は進路指導する者が居なくなり毛利政権樹立目前まで行きながら、毛利輝元はせっかく小早川隆景が守った毛利家120万石という大大名の地位からあわやお家断絶の一歩手前迄たどることになる。

毛利家の時代
『陰徳太平記』に、美貌であった隆景と大内義隆の衆道関係の記録がある。他には「常に危うき戦いを慎み、はかりごとをもって屈せしむる手段を旨とす」と評されている。
元就が危篤に陥った際、元就は兄弟の結束を説いた。その時、隆景は元就に「争いは欲より起こるもの。欲をやめて義を守るならば、兄弟の不和は起きませぬ」と述べた(『常山紀談』)。

人物像
『陰徳太平記』では「勇において兄・元春にやや劣るが、いつも危険な戦いを慎み、謀をもって敵を屈服させる事において非常に優れていた。治世撫民の跡深くして、愛和をもっぱらとする仁将」と賞賛している。同書では隆元・元春・隆景を花木に喩えており、隆景はどの木よりも早く緑を発する柳としている[14]。
隆景は毛利家の実質的な主導者として権勢も高かったが、主君である甥の輝元の前では必ず君臣の礼をとった[15]。しかし輝元の器量の無さを懸念し、熱心に教育し、時には厳しく折檻する事もあったという[15]。


以上、Wikiより。



小早川隆景