小西行景 (こにし ゆきかげ) | げむおた街道をゆく

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小西 行景(こにし ゆきかげ、永禄4年(1561年)? - 慶長5年10月24日(1600年11月29日))は、安土桃山時代の武将。小西隆佐の三男。隼人正。別名に長元。小西隼人の名前でも知られる。子に忠右衛門、七右衛門。



ー 生涯 -
小西隆佐の三男で母は小西マグダレーナ[1]。兄に小西行長などがいる。兄・行長が南肥後半国を与えられると、5,000石を与えられ宇土城代とされた。
天正17年(1589年)、天草国人一揆の鎮圧で活躍。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは留守居役として宇土城を任され、同じく家臣の南条元宅と内藤如安と共に守備した。加藤清正が来襲すると麦島城(八代城)の小西行重、薩摩島津氏に援軍要請の使者を発し、守りを固めた。この使者は加藤軍に捕らえられたため連携は阻止されたものの、加藤家重臣で水軍を率いた梶原助兵衛を海戦で撃破、討ち死にさせるなど善戦した。その采配は敵方からも高く評価されたという。
行景は10月まで持ちこたえたが、20日、行長家臣の加藤吉成、芳賀新伍の両名が行長自筆の書状を持って宇土に到着し、西軍が大敗したことを伝えると、抵抗を諦めた。自分が腹を斬るから城中の家臣全員の助命して欲しいと訴え、これを条件に23日に開城し、翌24日、言葉通りに熊本城下の下河元宜の屋敷で小西若狭守と共に切腹した。
墓は、行景の行為によって助命され、加藤清正家臣となった南条元宅により、後に禅定寺(熊本市中央区横手)に造られて葬られた。現在も南条の墓と隣接して行景の墓がある。
行景には、忠右衛門と七右衛門の男子2人がおり、忠右衛門は小西家臣白井某によって宇土落城の際に鹿本へ落ちのびた。忠右衛門の子孫は小材氏を名乗り、七右衛門の子孫は津田氏を名乗り、それぞれ武家として存続した。


以上、Wikiより。



小西行景